2016/10/06

芭蕉の自信を示す去来抄、「下京や雪つむ上の夜の雨」

「去来抄(きょらいしょう)」は、蕉門の俳諧師である向井去来(むかいきょらい)著の俳論書であるとされている。
この書は、去来が亡くなって70年以上経った安永4年(1775年)に京都の井筒屋によって刊行されたという。
その「去来抄」に 以下の文章が記載されている。
此句初冠なし。先師をはじめいろいろと置侍りて、此冠に極め給う。凡兆あトとこたへて、いまだ落つかず。先師曰、兆汝手柄に此冠を置べし。若まさる物あらば我二度俳諧をいふべからずト也。去來曰、此五文字のよき事ハたれたれもしり侍れど、是外にあるまじとハいかでかしり侍らん。此事他門の人聞侍らバ、腹いたくいくつも冠置るべし。其よしとおかるゝ物は、またこなたにハおかしかりなんと、おもひ侍る也
「此句」 とは野沢凡兆の句のこと。

下京(しもぎょう)や雪つむ上の夜の雨
野沢凡兆

「去来抄」によると、凡兆が最初にこの句を出したときには「下京や」という初冠(上五)は無かったらしい。
「雪つむ上の夜の雨」という中七と下五だけが出来上がっていて、凡兆には上五が思い浮かばなかった。
「先師(芭蕉)」や同門の者がいろいろ考えたが、芭蕉が「下京や」という上五を推奨した。
それに対して凡兆は「あっ」と言うだけで、しばらく決めかねている。
芭蕉が、「凡兆よ、あなた自身の創作としてこの上五に決めなさい。これに勝る上五があるならば、私は二度と俳諧について口出しはしないよ。」と言ったという。
もし、このエピソードが事実なら、芭蕉の自信の有り様がうかがえる。
当時の凡兆は、まだ蕉門のメンバーだったので、師匠の自信たっぷりな申し出には逆らえなかったのかもしれない。
それとも、「あっ」と声をもらしたあと、「下京や」は案外いいセンいってると納得したのか。

芭蕉と凡兆の応答を傍でうかがっていた去来は以下のような感想を「去来抄」に記している。
(私の現代語訳は、理解が正確でないかもしれませんが・・・・)
師匠が考えた初冠の五文字がすばらしいことは誰の目にも明らかなことだが、これ以外に有り得ないことをどうして知ることができましょうか(いや、これ以外には無いでしょう)。
このことを他門(蕉門以外の俳諧師)がお聞きになれば、こっけいにも幾つもの上五を置くに違いない。
他門の俳諧師によって最適だと選ばれた上五は、私たち(蕉門)にとっては、奇異なものに思われることでしょう。

と去来は、師匠の「指導」に全く賛同している。
はたして「下京や」は、本当に芭蕉の入れ知恵なのか、あるいは初めから凡兆自身による創作なのか。
これは全くの素人意見なのだが、先師思いの去来が、蕉門を離反した凡兆を責める意味合いもあって、こういうエピソードを創作したとも考えられるのではないだろうか。
というのは、私は凡兆に対して「都市詩人」という思い入れを強く抱いているからだ。
この句は、大都市京都の地名が入ることで、都会の冬の情緒が鮮明に描き出されているように思われる。

下京は、商人の街であり民衆の街である。
当時の下京は、貧しい人々が多く住む下町でもあったらしい。
冬の雨は、雪よりも冷たく寒く感じる。
冷たい雨が降る夜に、ひっそりと暮らしている庶民の息遣いが聞こえてくるような句であると私は感じている。
そんな家並みが、上五の「下京や」でイメージできる。
この印象の鮮明さは、凡兆ならではのもの。
私がこの句の上五も凡兆自身の作ではないかと考える所以である。

なお「去来抄」の「下京や・・・・」のエピソードには、自信たっぷりな芭蕉の姿が描かれていて興味深い。
同時に、「凡兆あトとこたへて、いまだ落つかず」という文章で、去来が感じた凡兆の気性も垣間見ることが出来て面白い。

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