2016/11/08

ハードボイルドだった湯たんぽ

 追跡者が、とうとう逃亡者の隠れ家をつきとめ、深夜に踏み込んだときは、建物のなかに人影はなかった。男は寝室をのぞき、お決まり通りベッドのなかへ手を差し込んだ。布団のなかは冷え冷えとして、温もりが感じられない。「奴は、まだ帰っていない。ここで待っていれば、そのうち現れるさ。」彼は仲間にそう言って、注意深く部屋のなかを見回した。長い逃亡生活を経てたどり着いた部屋の割には、そういう殺伐感がにじんでいない。ごく普通の生活者の匂いがした。

 追跡者のひとりが、丹念にベッドを調べている。すると彼は、ベッドの足元のほうで、バスタオルに包まれた湯たんぽを見つけた。タオルをはらって、ポリ製湯たんぽの凹凸面を指でなぞっていた彼が、突然声を上げた。「ボス、奴は、さっきまでここに居たんですぜ!」湯たんぽにかすかな温もりが感じられたのだ。かすかな温もりは、逃亡者のかすかな存在証明だった。追跡者一同、半信半疑で、ボスの指示を待った。ボスと呼ばれた男は、さし出された湯たんぽを受け取り、そのかすかな温もりを確かめた。

 逃亡者は、あまりの寒さに、眠りから覚めた。彼は極端な冷え性で、熟睡が出来ない性質だった。夜中に何度も目が覚める。何度目かに目を覚ました時、彼の身体は死人のように冷えていた。これでは眠れるわけがない、と彼は悲しそうにつぶやいた。緊張の連続が、彼の自律神経を圧迫し、失調ぎみにしていたのだ。そのとき、階下のドアを蹴破る音がした。続いて階段を駆け上がる数人の足音。彼は、衣類を抱え、バックを握って、窓から非常用梯子に飛び移った。梯子から降りて、ヒイラギの生垣をもがきながらくぐり抜け、傷だらけになって道路の暗がりへ消えていった。

 追跡者のボスが「まだここにいるかもしれない。あいつを探し出せ!」と男たちに号令をかける。手に持っていた湯たんぽを、いまいましそうに床に叩きつけた。すると、まさかそんなことになろうとは、ポリ製の湯たんぽがバウンドして、ボスの顎に激突。そのショックで握っていた銃の引き金を引いてしまい、ボスは自身の足の甲を撃ち抜いた。それに気づいた男たちが一斉に湯たんぽに弾を浴びせる。湯たんぽは、たちまち穴だらけ。かすかな温もりが床に流れ出している。「クソッ!クソッ、クソッ!」ボスの罵声が虚しい部屋に響く。自身の失態を呪っているのか、ボスは激しい憎悪の目を窓の外へ向けた。

 「ボス、今日のところは引き上げましょうぜ。」男のひとりが言った。「今の銃声を聞いて、もうじき警察もやって来るでしょうから。」ボスは無言でうなづいた。男ふたりが両脇からボスを支えて、寝室を後にする。「またしてもあの野郎命拾いしやがったな。」最後尾の男がつぶやいた。「もうしばらく、眠れない夜を過ごすがいいさ。」ボスは、足の痛さと悔しさに涙ぐみ、終始無言だった。追われる身でありながら、部屋に普通の暮らしの匂いがあったことが意外だった。湯たんぽがバウンドしたことも意外だった。普通のようで普通でない。それが逃亡生活というものなのだろうか。追跡者にはわからぬ世界だった。

 追跡と逃亡の劇を成り立たせているのは、知恵とか判断力とか運の良さとかでは無いかも知れない。それは、物。ちょっとした生活の小物だったりする。存在自体が気にならない物が、劇を意外な展開に導く。帰りのクルマの中で、追跡者たちはしみじみとそう感じた。「敵の能力よりも、その周辺に無造作に置かれている『物』に気をつけろ。」やっと口を開いたボスが、自戒の念を込めて男達にそう命じた。

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