雑談散歩

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省略と強調「踏んだり蹴ったり」

例文

「きのうね、私ね、駅で転んじゃって。そのとき眼鏡も壊しちゃって。もう、『踏んだり蹴ったり』だったのよ!」とか。
「先週は、空き巣に入られるわ、愛車は後から追突されるわ、ほんと『踏んだり蹴ったり』だったね。」とか。
「風邪をひいて頭痛が酷いわ、虫歯が痛いわで『踏んだり蹴ったり』さ。」とか。
「踏んだり蹴ったり」という言い回しが使われる例としての、ありそうな話はいくらでも出る。

それほど「踏んだり蹴ったり」はお馴染みの言い回しなのだが、この慣用句に違和感を覚える方も少なからずいらっしゃるという。
その違和感とは、「当人が被害を受けたんだから『踏まれたり蹴られたり』って言い方の方が合っているんじゃない?」ということ。

意味と、その使い方

ところで、「踏んだり蹴ったり」って、どういう意味なのだろう?
それは、災難や不運が続いて散々な目にあう(あわされる)ことの例え。
踏まれたり蹴られたりするほどの酷い目にあったということ。
では、なぜ「踏まれたり蹴られたり」と言わずに「踏んだり蹴ったり」と言ってしまうのだろう?

たとえばAという男が「Bのやつ、生意気言うんで踏んだり蹴ったりな目にあわせてやったよ。」と言う。
この台詞自体には違和感を覚えないが、あまりこういう言い方はしない。
逆にBのほうが、「Aのやつに、事あるごとに因縁つけられて、ほんと俺は、踏まれたり蹴られたりだったよ。」と言うと、これも脈絡としてはおかしくないが、どことなく一般的な言い方では無い。
Bが、「Aのやつに、事あるごとに因縁つけられて、ほんと踏んだり蹴ったりだよ。」と言うと、この言い分はごく自然に耳に入ってくる。

受動と能動

酷い目にあうということは受動的なことである。
つまり、他からひどい仕打ちを受けたということ。
ところが「踏んだり蹴ったり」は能動的な行為。
つまり、自分が相手を踏んだり蹴ったりしたということ。

自分は、他から踏まれたり蹴られたりしているのに、どうして自分が他を踏んだり蹴ったりしているような言い方をしてしまうのか。
ネットで調べると、様々な理由・根拠が述べられている。
どれもこれも、それとなく肯けるが、なるほどそうなのかと思うほどのものはない。

省略と強調

で、それとなく私の考えを言うならば、以下の通り。
「踏んだり蹴ったり」とは、「踏んだり蹴ったりされたような目にあった」という表現が、省略されてそうなったのではと考えている。
省略された表現は、表現したい内容を引き締めて強調させるのに効果的である。

「踏んだり蹴ったり」という語を、文字通りの行為としてのみ着目するから、受動態だ能動態だという話になる。
「踏んだり蹴ったり」は、その行為よりも、なんらかの行為によって引き起こされた散々な状態を強調している言い回しなのである。

一方「踏まれたり蹴られたり」だって、被った状態を表す言葉じゃないかという意見も成り立つ。
しかしそれでは実際の動作としての「踏まれたり蹴られたり」という狭い意味が表に出過ぎている。
「踏んだり蹴ったり」は酷い状況におちいったことを表す比喩として使われる。
しかも、被った被害状態を強調したいときに使う言い回しである。
言葉に勢いがあって、印象も強烈。
慣用句は、威力や迫力がある表現でなければならない。
ということで、結果的に「踏んだり蹴ったり」が、散々な目にあったという言い回しとして一般的になったのではないだろうか。

ただくどくどと訳も無く「踏んだり蹴ったり」について考えたというだけの話なのだが。

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