2017/03/22

はなちるや伽藍の樞おとし行

京都には、桜の名所となっているお寺が多いという。
お花見は、庶民の楽しみ。
仁和寺、東寺、清水寺、醍醐寺が、江戸時代においても名高い桜の名所だったらしい。
他に、善峯寺、天龍寺などもあげられている。
花の季節に凡兆は、そんな寺巡りを、奥様の羽紅と楽しんでいたのかもしれない。

はなちるや伽藍(がらん)の樞(くるる)おとし行(ゆく)
野沢凡兆

終日、花めぐりに興じていたら、もう夕刻になっていた。
最後のお寺に差し掛かると、お坊さんが山門の扉を閉めているのが見えた。
せっかくだからと門に近づいたら、扉が閉まって、戸の桟から敷居に「樞(くるる)」をおとしこむ音がコトンと鳴った。
はい、おしまい。
桜の花びらが夕暮の風にのって、境内の外へ舞い出ている。

いつのまにか日中の賑わいが消えて、静かな夜が来ようとしている。
僧侶が立ち去る静かな物音。
凡兆も羽紅も季節の移ろいを感じて、無言で落花を眺めている。
動かないふたりの影に花びらが舞い込む。

「伽藍(がらん)」とは、寺院の建物のこと。
「樞(くるる)」とは、戸締まりのため、戸の桟から敷居に差し込む木片や金物のこと。

「る」と「ゆ」の音がきれいな句である。
それがこの句に、美しいイメージを与えているように思う。
また、「る」と「ゆ」の音に、私は、回転するイメージを感じる
それに「く」の音が加われば、くるくると舞いまわるイメージだ。

桜の花びらがくるくると舞いながら散る。
お寺の山門やお堂や塔の扉が、くるくると回転するように閉じられる。

回転するイメージは、季節の移ろいにつながる。
扉が閉じられるイメージは、季節の終わりにつながる。
そんなふうに感じとることは、思い入れが過ぎるだろうか。

そして「おとし行」には、連続する動作のイメージがある。
夕暮になって、次々と閉じられていく寺院の扉。
「伽藍」の中へ消えていく僧侶たち。
日常の終わり。
ひょっとしたら、扉を閉めるのは寺男や小坊主の仕事かもしれないが。

「伽藍の樞」を落としながら去って行く者と散る花びら。
「伽藍の樞」も花びらも夕暮も人々も、天から地へと落ちていくように、夜の闇の底へ。

まるで映画のワンシーンのような句である。
もっとも、江戸時代には映画という概念は無い。
するとこれは、ワンシーンで完結する物語のような句であると言うべきか。
たぶん、ストーリーの時間を描いているのではなく。
奥行きの深さを描いている句なんだろう。

「樞」という、生活の「物」であり「道具」であるもの。
またしても凡兆は、「物」で美しい詩情を描こうとしているようだ。
その「物」を「おとし行」という何気ない動作が、句を読む者を物語へと導いていく。

はなちるや伽藍の樞おとし行

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