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2017/04/01

凡兆の対比的一体感「くだけたる船の湊やほととぎす」

俳諧に対する私の感想文は、「私ならこう思う」というもの。
であるから、私の感想文には、私なりの物の見方・考え方が如実に反映している。
よく言えば、独自の視点。
悪く言えば、偏った見解。

だが、「どう思おうが私の勝手」というものではない。
取り上げた俳諧と私の作文が、ほんの少しでも共鳴するようでなければ、感想文を書く楽しみは無い。
詩とか小説とか映画とか絵画とかの創作文化の享受者が抱く感想とは、そういうものではあるまいか。
触れたものに、感想をもつというささやかな楽しみ。

くだけたる船の湊やほととぎす
野沢凡兆

あるときまで海を自由に往来していた船が、今は壊れてしまって、浜に捨て置かれている。
「ほととぎす」が、廃船や残骸のそばで鳴いている。
あるいは、浜辺の松の枝で鳴いている。
あるいは、空を飛びながら鳴いている。
凡兆はそんな光景を句に詠んだのだろうか。

私は野沢凡兆を、「物」を句に描くことで、その存在感を表現してきた詩人であるとブログに書いてきた。
掲句での「物」とは「くだけたる船」。
かつては漁民や海運業者の生活を支えていた船が、残骸となって浜の方々に散らばっている。
そんな廃墟のような「湊」のどこかで「ほととぎす」が鳴いている。

ところで、「ほととぎす」は夏の浜辺に本当にいたのだろうか?
それとも、この句のなかに忽然と現れたのか?

凡兆が「くだけたる船」という「物」の存在感を際立たせるために「ほととぎす」を句のなかに呼び寄せたのではないだろうか。
そう読み進めていくと、唐突だった「ほととぎす」の存在が、自然なものに見えてくる。
いや、むしろ「ほととぎす」がいることに安堵感をおぼえる。
それは、なぜなのだろう?

砂浜に放置された船の残骸。
そんな廃墟のような光景で、命の温もりのある「ほととぎす」が鳴いている。
春になれば「花(桜)」が咲き、夏になれば「ほととぎす」がやってくる。
江戸時代に暮らす人々にとって、季節は命の営みであり「ほととぎす」は夏の命の営みの象徴であったことだろう。

かつて人々の暮らしを成り立たせていた「物」が、砕けて無用の「物」と化した。
凡兆は、その「物」をじっと見ることで、砕ける運命にあった「物」の過去の姿を感じようとする。
かつての人々の暮らしや希望や労苦が、その「物」の存在感となって凡兆に迫る。

暮らしの営みを繰り返させてきた季節。
秋のために、冬のために、春のために、夏のためにと、季節のために人々が繰り返してきた営み。

そんな季節を、掲句の「ほととぎす」は象徴している。
「ほととぎす」とは季節の存在感なのだ。
「ほととぎす」は、その光景を描き出した時間の営みであり、その光景のなかの点景でもある。

「物」の存在感と「季節」の存在感との対比。
対比的一体感と言うべきか。
そう読めば、掲句の「ほととぎす」は自然なものとなる。
「ほととぎす」出現の唐突感が消える。
私はこの句に接して、ほっと安堵するのである。

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