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2017/04/01

江戸時代の季節感覚「川水や汐つき戻すほととぎす」

凡兆の「ほととぎす」の句

またしても凡兆の「ほととぎす」の句
凡兆の「ほととぎす」の句には、「ほととぎす」が唐突に登場する句が多いと、私は感じている。
その句を読むと、まるで取ってつけたような「ほととぎす」と出会うことになる。
これはどういうことだろうと思っていたのだが、遅まきながらあることに気がついた。

不覚にもそれは、今まで凡兆の「ほととぎす」の句を記事にしてきて、まったく考えもしないことだった。
それは、現代を生きている私と、江戸時代に暮らしている人間とでは、季節の言葉(ほととぎす)に対する感覚がまるで違うのではないかということ。

季節感

生活の節目としての季節感は、現代でもある。
服装を替えたり、行動を替えたり、食事を工夫したり。
その季節を迎えるにあたって、いろいろな仕度をしたり。

だが現代では、機械文明や物質にカバーされて、季節がもたらす気候に左右されることが少なくなった。
それなりに快適な日常を過ごすことができるようになったのだ。
冬は暖房と、軽くて保温性の高い防寒具。
夏は、エアコンや様々な避暑活動。
お金があれば、日本が夏でも、わたしたちは飛行機で南半球へ行き、スキーができるのだ。
それに食材に関しても、季節感は無くなる傾向にある。

そんな日常だから、季節感は過去と比べて、どんどん薄れつつあると言える。
季節季節の商品コマーシャルが、購買意欲を駆り立てるための「季節感」を演出してはいるが。

江戸時代の言葉の力

江戸時代では、季節の象徴としての言葉の力が大きな存在だったのではないだろうか。
その時代のわずかな出版物を読みこんで、そこに記された言葉で江戸時代の庶民はイメージを膨らませていたのではあるまいか。
言葉と季節との結びつきが、現代では想像もできないほど強かったに違いない。
秋は「月」、冬は「雪」、春は「花(桜)」、そして夏は「ほととぎす」。
歌や句に詠まれるところの、季節を代表する言葉である。
江戸時代では、「季節」が、言葉(情報)のいっぱいつまった「メディア」だったのではあるまいか。

私達が「ほととぎす」と聞いて、何かを感じる。
しかし、江戸時代に暮らしていた人々は、「ほととぎす」という言葉に、私達以上に深く広く何かを感じていたことだろう。
江戸時代の人々は、現代人よりもはるかに季節に関心をもっていたはずである。
映像メディアが無かったがゆえに、言葉で季節を感じていた。
「季節(メディア)」がもたらす生活の変化を、「言葉」で鋭敏に感じ取っていたのではあるまいか。

ほととぎす


川水や汐つき戻すほととぎす
野沢凡兆

満潮の河口の光景。
河口から上流に向かってせり上がってくる汐を、上流から流れてきた「川水」が押し返している。
河口付近で、「汐」と「川水」が激しくぶつかりあっている光景が思い浮かぶ。

まるで「ほととぎす」が大雨を降らせているようだと凡兆は感じたのだろうか。
「ほととぎす」は梅雨明けの頃まで鳴くとされている。
梅雨の夜空を鳴きながら飛んでいくこともあるという。

「ほととぎす」の激情的な鳴き声が、激しい雨を降らせるのか。
河口では、「汐」と「川水」が激しくぶつかり合う。
天と地とという対比的な位置にありながらも、お互いの激情さで「汐をつき戻す川水」と「ほととぎす」が一体となっているようなイメージが感じられる。

「ほととぎす」と「五月雨」

そもそもこの句は、川の流れに勢いをつけた「五月雨」を詠んだものと思われる。
だとすれば、以下のような句の方が、現代に暮らす私達には解りやすい。

「五月雨が汐つき戻す川水や」
だが、これではダサい。
ダサ過ぎる。
「五月雨」も「汐」も「川水」も内容は水。
水だらけである。
ここに彩りがほしい。
そこで、「ほととぎす」の登場となるのではなかろうか。
しかも「戻す」と「ほととぎす」は語呂がいい。
句のリズムが心地よい。

江戸時代末期の浮世絵師「歌川広重」の浮世絵に、「駒形堂吾妻橋」という風景画がある。
「名所江戸百景」という連作浮世絵の一枚で、五月雨降る隅田川を進む十数隻の船が描かれている。
そして、その上空には一羽の「ほととぎす」。
船が進んでいるのと同じ方向へ飛んでいる。
「ほととぎす」の口が開いているのは、鳴きながら飛んでいる様子を描こうとしたのだろう。
野沢凡兆が没してから約150年後に、歌川広重が描いた「ほととぎす」。
江戸時代の人々の、夏の「ほととぎす」に対する思い入れの深さをうかがい知ることができそうな一枚の絵である。

江戸時代の季節感は生活感

江戸時代に暮らす人たちからすれば、この「ほととぎす」の一語は、夏のイメージの広がりを擁している言葉であるのだろう。
こういう言葉の感性に支えられて、「川水や汐つき戻すほととぎす」は、江戸時代において、俳諧として庶民のあいだに生き生きと口伝されていたことだろう。
そういう季節の言葉(俳諧文化)に触れることで、庶民の季節感覚は生活感となって共有されていったのかもしれない。

俳諧と触れ合うには江戸時代の庶民の生活感覚を知ること

現代において俳諧を楽しむためには、機械文明や豊富な物質から隔離された空間に身をおくことから始めなければならないのではないか。
その空間で、江戸時代の生活に思いを馳せながら、静かに句を読む。
そういう生活が育んだ言葉のイメージについて考える。
そうすればおそらく、その句に対する意外なイメージの広がりを感じることができそうな気がする。
つまり、新鮮な俳諧の姿と出会えるかもしれない。
そう思った一句だった。

川水や汐つき戻すほととぎす

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