2017/11/04

留主の間に荒れたる神の落葉哉

元禄二年八月二十一日に、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の旅の最終地美濃大垣に着く。
同年九月六日、伊勢に向けて揖斐川から船出するところで「おくのほそ道」の旅を終えている。
その結びの句は、「蛤のふたみに別れ行く秋ぞ」。

芭蕉は、伊勢神宮の式年遷宮を奉拝し、そのあと伊賀上野の郷里と大津、膳所(ぜぜ)、京都を漂泊することになる。
この間、「幻住庵記」や「嵯峨日記」を書き、京都で「猿蓑」を監修し刊行している。

元禄四年九月二十八日に、九月二十三日から滞在していた義仲寺(ぎちゅうじ)境内の「無名庵」を出て江戸への帰途に就く。
まずは、大津から彦根平田へ。
十月に入って、彦根平田から美濃垂井(たるい)、大垣、熱田(あつた)、三河新城(しんしろ)、島田、沼津と旅を続ける。
江戸到着は、十月二十九日。

「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」によれば、芭蕉は「おくのほそ道」の旅に出るにあたって、芭蕉庵を平右衛門なる者に譲渡している。
その芭蕉庵の再入手のため、杉山杉風と河合曾良が奔走していたが、譲渡金額のことで交渉がはかどらず、結局は再入手出来ない。
二年半ぶりで江戸へ戻ってきた芭蕉は、日本橋橘町の借宅に仮住まいする。

留主(るす)の間に荒れたる神の落葉哉
松尾芭蕉

掲句は、二年半の旅から江戸帰着した際の発句。
芭蕉は神無月二十九日に江戸に帰ってきた。
神無月は、全国から神々が出雲大社に集まる月であるという。
各地に神がいなくなる月の意から、「神無月」と名付けられたという。
そういう俗説が江戸時代にも言いふらされていたとのこと。
そのため掲句の「留主」には、神の「留主」と芭蕉の「留主」というふたつの意味が含まれているという「解釈」が一般的であるらしい。
そして「留主の間」は、神の「間」のことで、神がいないあいだに神の「間」は落葉が積もってすっかり荒れ果ててしまったという句の意であるという。
だが神の不在は一ヶ月だが、住民である芭蕉の江戸不在は約二年半にもなる。
「留主」に芭蕉と神の不在を掛けるにしても期間に差がありすぎてピンとこない。

私は、「荒れたる神」とは「荒神」のことではないかと思っている。
日本の民間信仰で台所の神様として祀られている荒神様である。
その「荒神」と「かみさん(妻)」を掛ける。
芭蕉は江戸に帰ってきて、二年半にものぼる自身の漂泊の旅を思い浮かべ、こんなことを一般の亭主が行ったらどうであろうかと仮想してみたのではあるまいか。

いつ帰るとも知れぬ亭主を、その「かみさん(妻)」はどんな思いで待っているのだろうか。
いや待ってなどいない。
荒廃した心を抱えて、家を出ていくであろう。
「かみさん」とともに、台所の守護神である荒神様も出ていく。
無人となった家の中には、廃墟のように落葉が吹き溜まるばかり。
きままな旅から帰ってきた亭主は、廃屋となった我が家を見て愕然とする。
「落葉」は「かみさん」の置き手紙のようなもの。
すっかり枯れて、気持ちに潤いが無くなったと、亭主に訴えている。
「かみさん」にも「荒神」様にも見捨てられた家。
それが「留守の間」であった。
西日を浴びて呆然と佇む亭主。
舞台は暗転。
亭主の姿が消え、初冬の木枯らしが落葉を吹き散らしている。

留主の間に荒れたる神の落葉哉

芭蕉は俳諧師としての自身を、市井の民としてはどうであろうと客観視したのではないだろうか。
旅に出ているときは「風狂」の俳諧師であるが、芭蕉は深川の芭蕉庵でつつましく侘住居をしている江戸市民としての一面も持っている。

この度はその芭蕉庵も人手にわたったままで、知り合いの借宅に仮住まいしている身の上。
旅に出ているときはハイテンションな芭蕉も、留主にしていた江戸の世間のなかでは落葉のように心細い。
そういう市井の民としての自身を舞台にあげて客観視している句であると私は感じている。

尚、元禄五年五月中旬に杉風等の尽力により、深川の旧芭蕉庵の近くに「第三次芭蕉庵」が竣工。
新築にあたっては、杉山杉風と枳風(きふう)が出資し、河合曾良と岱水(たいすい)が設計を担当したという。

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