津軽地方北西部新田開発の象徴、つがる市「銀杏ヶ丘公園」の大イチョウ
「銀杏ヶ丘公園」の門。 |
つがる市にイチョウの巨樹があるというので寄ってみた。
その大イチョウは、「銀杏ヶ丘公園(いちょうがおかこうえん)」のなかに立っている。
「銀杏ヶ丘公園」の場所は、住宅地のなかにあり、ちょっとわかりにくい。
住所は、つがる市木造(きづくり)曙(あけぼの)。
国道101号線を五所川原から鰺ヶ沢に向かって走り、つがる市役所方面へ右折。
国道101号線上には、道路標識でつがる市役所方面への右折を示す交差点が2箇所ある。
「銀杏ヶ丘公園」へ行くには、そのうちの二つ目の交差点を右折したほうがわかりやすい。
右折して350mぐらい走ると五能線の踏切に出る。
踏切を越えて道なりに750mぐらい走ると右手に生垣に囲まれた公園が見えてくる。
イチョウの巨樹。 |
大イチョウは、公園の西側に立っている。
敷き詰めた黄色い落ち葉のせいで、根元一面が輝いている。
イチョウを囲っている木柵に固定された看板によると、このイチョウは昭和六十年四月現在、幹の周囲は7m、樹高は25mであるという。
青森県深浦町の「北金ヶ沢のイチョウ」の幹の周囲は22m、樹高は31m。
この「北金ケ沢のイチョウ」は、日本一の大イチョウであるとされている。
さらに、青森県十和田市にある「法量のイチョウ」は日本で四番目のイチョウの巨樹であるという。
その他、青森市に「宮田のイチョウ」あり、青森県黒石市に「袋のイチョウ」あり。
ともに樹齢を重ねたイチョウの巨樹である。
言うまでもなく青森県は全国に知られたヒバ王国。
だがこうしてみると、イチョウの巨樹が県内各地に点在しているイチョウ王国でもあると言えそうだ。
これらのイチョウに比べたら「銀杏ヶ丘公園」のイチョウは小さいし、まだ若い。
若くて小さいが、間近に見ると大きい。
その存在感に圧倒される。
歴史のなかで消えずに存在し続けているという内に秘めたエネルギー。
その存在感は、大イチョウの秘めたエネルギーから伝わってくるのかもしれない。
看板によると、この大イチョウは、「新田開発の大業完成近く津軽4代藩主信政公が木作御刈屋改築の工事を起こし、これが落成した貞享元年(西暦1684年)8月自ら鍬をもって庭前(北の方)に1株お手植えされたものであります。」とある。
貞享元年八月と言えば、松尾芭蕉が「野ざらしを心に風のしむ身哉」と詠って「野ざらし紀行」の旅に出た頃。
芭蕉の「俳諧行脚」はこの年から始まったとされている。
以後、生涯を終えるまでの十年間に、芭蕉は合計四年九ヶ月を旅の空の下で暮らすことになる。
その頃、弘前藩四代目藩主津軽信政が植えたのが、この大イチョウである。
イチョウは現存して、津軽地方北西部の新田開発の歴史を今に伝えている。
「銀杏ヶ丘公園」は、藩政時代の「木作代官所」の跡地であり、その敷地には藩主が巡検の際に寝泊まりする「御仮屋」も建っていたという。
「木作」とは木造地区の江戸時代の呼び名。
「銀杏ヶ丘公園」は、まるで「史跡」のような公園である。
つがる市の旧木造地区には、1944年に国史跡に指定された「亀ヶ岡石器時代遺跡」がある。
現在から見れば謎の多い縄文時代の遺構が史跡としてクローズアップされている。
その一方で、現在の津軽地方田園地帯成立の歴史の、象徴のような「木作代官所跡地」が都市公園として市民の憩いの場となっている。
やがて時が過ぎて「銀杏ヶ丘公園」の大イチョウ「公孫樹」が千歳ぐらいになるとする。
そんな時に、藩政時代の新田開発や藩主が手植えしたイチョウの木が、遠い時代の謎の象徴のようになることがあるかもしれない。
縄文時代と古墳時代が何かによって分断されたように、津軽地方の新田開発の歴史が何かによって分断される。
それまでのコミュニティが消失する。
すべては、縄文時代の土器や土偶のように破壊されて、謎の存在となる。
「銀杏ヶ丘公園」の大イチョウを見ていたら、そんな空想が湧いてきた。
近未来サスペンス映画の見過ぎだろうか。
それとも、大イチョウの霊力のせいだろうか。
イチョウは、太古より生きながらえた樹木。
氷河期をも乗り越えたと言われている樹種。
縄文時代のはるか以前からこの地に存在していたかもしれないイチョウ。
現在、その子孫が都市公園の一角で市民に親しまれている。
古代から現在まで、消失したコミュニティの時代を貫いて生きている。
そういうイチョウ類の存在に、改めて感じ入った。
「公孫樹」の看板。 |
太い幹。 |
巨樹の裏側。 |
分かれて伸びている幹。なにやら、霊力を感じてしまう。 |
粒が大きい銀杏の実。 |