2020/08/13

三好橋

遠方で暮らしている姉からメールが届いた。
そのメールには、雪の積もった川原を歩く小さな人物のモノクローム写真と、ワープロで書かれたと思われる短いメモの写真が添付されていた。

そのメモによると、古いモノクローム写真の裏には「S42.1 岩木川有料道路 ○○○○」と書かれていたという。
「○○○○」は私たちの母親の名前である。

姉は従兄弟から送られてきた写真を、メールに添付して私に送ってきたのだった。
それから察すれば、この写真を撮ったのは昭和42年1月当時の従兄弟である。
このメモも、近年になって古い写真を見つけた従兄弟が書いたもの。
写真に写っている母は、当時は45歳になっていたはずである。

メモの後半には、以下のような内容の文が綴られてあった。
これらは、古い写真を見つけた従兄弟が、写真を見て思い出したことを書いたメモを、私がまとめたものである。

(1)岩木川に架かっている三好橋の取り壊しが始まって、橋を渡ることが出来ない時期があった。
(2)橋の近くの凍った川面にロープが張られ、歩くべき道がわかるように目印として葦の茎を雪に差し込んであった。
(3)その道には、箱が設置されていて、百円ぐらいの利用料金が徴収されていた。
(4)従兄弟は、私の母から、氷が割れて自分が川に落ちるかもしれないので、渡りきるまで見てほしいと頼まれたという。
(5)従兄弟は母親を見送りながら、「なぜか、悲しい・寂しい思い」を覚えたという。

モノクローム写真の右端には、多数の橋脚を抱えた百足のような木造橋が写っている。
これが昭和42年頃の三好橋である。
写真の母は、雪の積もった河川敷を対岸の旧出野里村を目指して歩いている。
生家を訪れた母が、自分が暮らしている家へ戻る途中の写真である。
母が進んでいる前方に、川筋のようなラインが写っている。

上空には黒っぽい雲がかかっていて、いまにも雪が降りそうな空模様となっている。
広い雪原の川原と対岸の白い堤防と曇天の空。
その風景に押しつぶされそうなほど小さな母が、黒い影となって凍った川を渡ろうとしている。
写真からは、防寒着を着た母が、右手にカバン、左手には風呂敷包みのようなものを持っているのがわかる。
これが母の日常のスタイルであった。
日常のスタイルのまま、非日常的な場所に足を踏み入れたのである。

平成11年に「社団法人 日本橋梁建設協会」が発行した「虹橋」という資料をインターネットで見ることが出来た。
その小冊子に「橋ものがたり【青森の橋】」という特集記事があって、三好橋が取り上げられている。

以下はその抜粋である。
「旧三好橋は、昭和29年に木橋で架けられ、西北地区の交通に重要な役割を果たしてきたが、昭和41年8月12日の豪雨出水により、全長342mの内、流心部132mが流され、これを契機に災害復旧費と改良費とを合併して架替に着手、昭和46年3月に完成した。」

この記事を参考にすると、三好橋は橋の中心部より出野里村寄りの位置で、全体の三割近い部分が流失したことになる。
このあたりの岩木川の河川敷は、三好村側の方が広い。

その流失部分は写真には写っていない。
橋は、写真の右端上で切られていて、川の流心部分に当たる橋は写っていない。
とすれば、写真の母は、恐る恐る川の上を歩いていたことになる。
前述した「川筋のようなライン」とは、川面と向こう岸にできた段差のラインなのだ。

道理で写真の母の歩幅が狭いはずである。
一歩一歩確かめるような足取りで、母が凍った川の道を歩いている写真だったのだ。
こんなふうに写真を見ていると、この写真のテーマが見えてきた。
それは、撮影者が無意識のうちに写してしまった現実であるのかもしれない。

昭和42年といえば、「高度経済成長」が後半期に入った頃。
日本の自動車生産台数がアメリカに次いで世界第二位になった年。
橋は物流の象徴となり、辺境の地である津軽半島の村にもその波が押し寄せていたのである。

木橋を、鋼材とコンクリートの近代的な橋に架け替えるために解体する。
そのすぐそばで、凍った川を恐る恐る渡らなければならないという古い習慣に支配された、原始的とも言える行動を余儀なくされる。
このモノクロームの写真は、「高度経済成長」と「古い習慣」との対比が、隠れたテーマとなっているように思えるのである。

そういう習慣がなければ、人は凍った川を歩いて渡らないであろう。
母の川渡りは、きっと古い習慣に裏打ちされた行為なのだ。

しかも、そんな危険をおかすのに料金を取られてしまう。
凍った川に道をつくって、人を渡らせて小遣いを稼ぐという習慣。
二重に古い習慣を、母同様に多くの人たちが渡っていたのだろう。

写真の撮影者である従兄弟はこのとき「なぜか、悲しい・寂しい思い」を感じたとメモに書いている。
「悲しい・寂しい思い」の出どころが不明なのである。
それはこの津軽半島の寒村の冬景色に、あまりにも多くの「悲しさ」や「寂しさ」が混沌と染み込んでいたせいではあるまいか。

慣れ親しんだ木橋が、近代に飲み込まれて解体されるという寂しさ。
危険だと思っても、古い習慣に従わざるを得ない叔母の悲しさ。
危険な場所を、葦を立てることで有料道路にしてしまう地域の風習の悲しさ。
さらに、危険と知りつつも、そのなかに身をおいてしまう捨て身な叔母の気質の寂しさ。

千切れた百足のような三好橋は、それらの「悲しさ」や「寂しさ」の象徴として、風雪のなかに身をさらしていたのかもしれない。

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