卒業アルバムで同期会のための予習

4月14日(日曜日)に中学校の同期会に参加しました。
 卒業年度が同じ人達、つまり中学校時代同学年だった人達の再会パーテーです。
 実に45年ぶりの再開でした。

 感想は、「懐かしくて やがて寂しい 同期会」でした。

 少年少女だったその当時のように、姓(名字)では無く名前で呼ばれる懐かしさには癒されました。
 ああ私にはこんなにも親しみを持って語り合う人達がいたのだ、という安堵感がありました。
 それは、クラス会・同級会といった会合につきもののカタルシスと言ってもいいでしょう。
 日常からはちょっと離れた心地良い時間のなかに心を置いているという感傷がひろがりました。

 寂しさというのは、人を思い出せない悲しさのことです。
 お互いに思い出せないのはいいとして、相手の方が私を覚えてくれていたのに、私が相手の方をまったく思い出せないという悲しさです。

 相手に寂しい思いをさせてしまった自分が、寂しいのです。
 その寂しさは、当時の村里の寂しい風景、寂しい思い出と重なります。
 寂しさが寂しさを呼んで、楽しい気分が薄れていくのが実感できました。

 少年時代の思い出は、私と言う人間の原点かも知れません。
 それは他の人達もそうであると思います。
 同期会と言うパーテーのなかで自身の少年時代を振り返ると、今の私自身の在り方が解るような気がします。
 こうならざるを得なかった由縁です。
 ここに至った由縁が少年時代にあったのだという感慨と後戻り出来ないのだという悔しさ。
 今になって思えば、修正すべき交友関係がたくさんあったという後悔。
 ですから、同期会やクラス会に参加するには気楽にはできません。
 自身の今の在り方に対する正確な認識と、それを目の当たりに突きつけられることに対する覚悟が必要です。

 あと、卒業記念アルバムがあれば、かつての友人達に失礼の無いよう、面影と姓名を記憶に刻んでおくべきでしょう。
 これは重要なことです。
 アルバムの中の古い友人達を理解できなければ、今現在の彼ら彼女らと交友できないのです。
 同期会は、参加者自身の寂しさを噛み締める場であると同時に、今現在の生の彼ら彼女らと交友する場でもあるのです。
  
 長い時間の経過とともに、人生の知恵が充分身に備わってあるはずの年齢ですから、内面の寂しさは心の奥底にとどめて久しぶりの再開を喜ぶべきなのでしょう。
 
 復習(予習?)が同期会に参加するために大事な方法です。
 それがあれば、少しは寂しさが薄れるかもしれません。
 この単純で具体的な方法によって救われるかも知れません。
 
 観念の広がりは勢いがつくと押しとどめようがありません。
 観念の海に溺れるよりは、具体的な方法で現実を解明するべきです。
 
 残念ながら、私は卒業アルバムを消失していました。
 そして、卒業アルバムがこんなに尊いものだと言う事にはじめて気づきました。
 卒業アルバムは先人達の知恵の結晶なのですね。

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