様々な実感が作る、映像記憶としての錯覚

実感とは、実際に物事に接して心に感じること。
または、体験しなくても実際のように感じること。
それが錯覚でも、実際に接したように生き生きと感じるのであれば、それも実感。

たとえば、犬の散歩で知らない道に迷い込む。
未知の場所なのに、初めての道だと言う実感が湧いてこない。
むしろ、「この道はいつか来た道」というふうに反対の実感が湧いて出る。

知らない道だという実感が、いつか来た道であるという実感にすり替わってしまう。
その記憶は、あやふやだけれども懐かしいものでもある。
それは、ある種の感動からそうなる。
心を大きく動かされた時、その未知の場所が確かな手応えを伴って心に迫ってくる。

初めての場所なのに、なぜ懐かしい気持ちになるのか。
犬の散歩で入った小路が、初めての道であっても、長年見知った町内の一部だからかもしれない。
ポイントとしては初見でも、エリアとしては共通の雰囲気があるので、見慣れた風景であるという気持ちになる。
その風景を遠い昔に見たような気がして、懐かしく思い出す。
というように考えてみる。

はたしてそうだろうか?
いままで犬の散歩で町内のいたるところを歩き回っていたのに、この道だけなぜ通らなかったのだろう。
あたかも、突然道が出来たような不思議な気分。
ここにこんな道があったなんて、という驚きの気持ち。
それは、ちょっとした感動でもある。
新発見は新鮮な気分をもたらす。
未知の場所が確かな手応えを伴って心に迫る。

全く初めて見る小路なのに、見慣れたと感じるのは習慣化された小さな錯覚のせいなのかも知れない。
錯覚を錯覚のまま実感として受け入れている。
そんな習慣。
現実のように見える実感が、現実の実感とすり替わる。
町の風景によっぽど極端な違いが無ければ、風景は見慣れたものになる。
そうやって通り過ぎてしまう。
習慣化された枠の中に取り込まれてしまう。

しかし実際には、町には多様な人間が暮らしている。
その生活のスタイルも多様だから、町の風景も多様なはず。
ひとつとして同じものは無い。

町内の道や小路や家並みに、ひとつとして同じものは無い。
実際よく見れば、犬の散歩で入った知らない小路は、全く初めての場所で、見慣れたものはなにも無いのだった。

通り過ぎてしまいそうな道で、ふと立ち止まる。
そのときに、ふたつの気持ちが働いている。

ここには、他には無いものがあるな、というもの。
他とは異なる生活のスタイルが作っている外観の違いがあるという思い。
異質だが、記憶の奥にあるものと通じる何かがある。

そして、もうひとつ。
どこにでもある小路だから、見慣れたものばかりだという気持ち。
きっとここは、以前通ったことのある道なのだから、という思い。
その思いが、過去の映像記憶につながる。

錯覚を導き出す実感は、ひとつではない。
様々な実感が、偶然にか故意にか編集されて、映像の錯覚を作っているような気がする。

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