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方法についての雑感

2018/04/06
人は、新しい方法を覚えたら、それを試してみたくなる。
その方法の効果を実感したいからだ。
例えば、早く走る方法を会得したランナーは、その方法に夢中になる。
記録をのばすことで自身の進化を感じて、生まれ変わった気分になる。
そのランナーの成長ぶりを賞賛する周囲の人々の笑顔に、彼は心の充足を得る。

適切な方法の成果は、いつもポジティブに働く。

効率の良い方法は、時間や手間の短縮を生み出すから、生産活動が活発になる。
方法は新しい産物を作り出す。
方法は新しい発想を生み、新しい時代を作り出すかも知れない。

政治の専門家としての政治家は高度な政治的判断を下す。
そう思われている。
だが、その先生方を選んでいるのは私達だ。

私達は、日常生活の地平を蟻のように動き回っている生活者である。

生活者には複雑な政治の知識や方法を学ぶ時間がない。
それほど、政治の場は日常生活からかけ離れている。

密室の作業も多い。
専門家の先生が政治という独占事業に専念しているせいかも知れない。
日常生活者がその事業に取り組もうとしても、多くの場合、素人として除外される世界である。

素人は邪魔者だという先生方を、私達は本当に選んだのだろうか。
新しい発想を生み出すには、まず「前提」を疑えという思考方法がある。
先生方を先生としてあらしめているのは、選挙に当選したという「大前提」である。

それは、さて置いといて。

日常生活者は、日常生活の中からいろいろな方法を探っている。
その継続が、生活者としての自立を獲得させている、と思う。

社会的な出来事は日常生活と密接に繋がっている。
政治とは行為であり、社会的な作用であると言える。

政治とは、様々な社会の意見の、調整や統合や決定に向けての作用(仕事)である。
その仕事を行うためには政策が必要だ。
政策とは、政治の仕事を行うための基本方針のようなもの。
思想であり実行方法である、と思う。

日常生活者には、生活者としての思想や実行方法がある。

ところがそれは、極めて個人的であり利己的であるとされて、「国のため」という政治思想のレベルまでは届き得ない、とされている。

「国のため」に考えることが政治家の宿命である。

「飯のため」に考えることが生活者の宿命である。

政治家の先生方から見れば、生活者とは、「国のため」という思想には程遠い私利私欲のために奔放している蟻のような存在かも知れない。
その「私利私欲の群れ」を「国のため」に活用するのが「選挙」なのかも知れない。

私達は、その「選挙」で私達の「私利私欲」の何パーセントかを「国のため」に捧げている。
政治家の先生方は、ささやかではあるが塵も積もれば山となる有権者から捧げられた「私利私欲」を入手。

それを政治の仕事の糧としている。

そこで私達の私利私欲の何パーセントかは、うまく「国のため人民のため」に機能している、ということになるのか・・・。

生活者の「私利私欲」は意外と強靭である。

それを増収した先生方が「私利私欲」のエネルギーに毒されて、「私利私欲」の怪物となるのか・・・。

複雑な政治の知識や方法を学ぶ時間がない生活者には、今のところ不明である。

新しい方法は、どこで発見されるのだろう。
国政の専門機関でか、大学の研究室でか、日常生活の片隅でか。
方法を発見する方法もあるかもしれないから、発展する方法が日常生活を面白いものにする、かも知れない。

結局、すべては、方法に拠る。
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