林道跡の散策で出会った大型キノコ(アカヤマドリか?)
大型キノコを斜め上から撮影。 |
ほぼ林道跡の真ん中に、ひとつだけ出ている。
傘の直径は20センチぐらい。
大きくてボリュームがあるので、その色合いからパンを連想してしまった。
メロンのネットができる仕組みは。
メロンの中身の成長に、外側の皮の成長が追いつけず、外側の皮にネット状のヒビが発生する。
そのひび割れを、内側から染み出した果汁で充填したものがメロンの網目模様であるらしい。
こちらのキノコの傘の網目模様は、何も充填されていない。
天空に晒された、ただの寂しいひび割れ。
それは、さておき。
山中で食料も無くなり、絶望的な空腹におそわれた時、つい手が出そうなボリューム感。
だが、通常では、あまり美味しそうには見えない。
もっとも、キノコは美味しそうに見えるからといって、訳もわからず口の中に入れてはいけない。
食した者が死に至る猛毒キノコがあるのだ。
帰宅してから、「グラフ青森」社発行のキノコ図鑑「青森のきのこ」で調べたら、「アカヤマドリ」というのに似ていた。
もし写真のキノコがアカヤマドリなら、食菌であるということだ。
味は比較的美味だと書かれている。
たったこれだけの情報で、このキノコを食べてみようなんて人はいるだろうか?
食の冒険者?
まあ、実際にいるかも知れない。
そうであるから、キノコの食中毒(誤食事故)が後を絶たないのだろう。
世の中には美味しいものがたくさんあるのに、どうして、こんなものを食べようなんて気持ちが湧くのだろう。
食の冒険者?
それも不確かな情報を「根拠」にして、食べても良いという行動を決定してしまう。
不確かな情報でも、一旦それを「根拠」にしてしまったら、もうその情報は省みられなくなる。
人間は「順番」という、行為の自動的な連続性に支配されてしまいがちだ。
食用キノコであるという「根拠」が、食べるという自動行動を引き起こす。
食用キノコは食べるものだ、という「常識」に囚われて、毒をも食らう。
人間を錯誤に引っぱり込もうとする何かが、「根拠」や「常識」の御旗を振りかざすのかも知れない。
なんてことを考えるのは、このキノコの独特な存在感のせいなのだろう。
それは、死を誘因するかも知れない存在感かも知れない。
山中の林道跡で出会った大型キノコは、静かに発生し。
おそらく、誰にも知られずに静かに朽ち果てていくだけなのだろう。
こちらのキノコの傘の網目模様は、何も充填されていない。
天空に晒された、ただの寂しいひび割れ。
それは、さておき。
山中で食料も無くなり、絶望的な空腹におそわれた時、つい手が出そうなボリューム感。
だが、通常では、あまり美味しそうには見えない。
もっとも、キノコは美味しそうに見えるからといって、訳もわからず口の中に入れてはいけない。
食した者が死に至る猛毒キノコがあるのだ。
帰宅してから、「グラフ青森」社発行のキノコ図鑑「青森のきのこ」で調べたら、「アカヤマドリ」というのに似ていた。
もし写真のキノコがアカヤマドリなら、食菌であるということだ。
味は比較的美味だと書かれている。
たったこれだけの情報で、このキノコを食べてみようなんて人はいるだろうか?
食の冒険者?
まあ、実際にいるかも知れない。
そうであるから、キノコの食中毒(誤食事故)が後を絶たないのだろう。
世の中には美味しいものがたくさんあるのに、どうして、こんなものを食べようなんて気持ちが湧くのだろう。
食の冒険者?
それも不確かな情報を「根拠」にして、食べても良いという行動を決定してしまう。
不確かな情報でも、一旦それを「根拠」にしてしまったら、もうその情報は省みられなくなる。
人間は「順番」という、行為の自動的な連続性に支配されてしまいがちだ。
食用キノコであるという「根拠」が、食べるという自動行動を引き起こす。
食用キノコは食べるものだ、という「常識」に囚われて、毒をも食らう。
人間を錯誤に引っぱり込もうとする何かが、「根拠」や「常識」の御旗を振りかざすのかも知れない。
なんてことを考えるのは、このキノコの独特な存在感のせいなのだろう。
それは、死を誘因するかも知れない存在感かも知れない。
山中の林道跡で出会った大型キノコは、静かに発生し。
おそらく、誰にも知られずに静かに朽ち果てていくだけなのだろう。
大型キノコの傘の内側を撮影、多孔菌であるらしい。 |
大型キノコを上方より撮影。 |