お盆というトートロジー
お盆風景、日本の寺。 |
そういえば、この町内の盆踊りが昨夕おこなわれていたようだ。
遠くから、盆踊りの曲と掛け声が聞こえていた。
墓参りも、親戚を訪ねるのも、盆踊りも、全て「お盆」の行事。
行事というか、ほぼ仕事に近い。
だから、終わるとほっとする。
13日に、田舎の墓地へ墓参りに行った。
父母の墓に線香をあげていると、近所の墓に墓参に来ていた人がつぶやいた。
「ああ、お墓は、やっぱりお墓だねぇ・・・・」
この言い方、なつかしい、「トートロジー」だったっけ。
私は顔を上げて、そうつぶやいた当人をチラ見したが、見知らぬ同年代のご婦人だった。
「同義循環」とも言っていた。
若い頃、演劇に興味を持っていた時分、覚えたコトバだ。
「日本の夏は、やっぱり日本の夏だねぇ。」
とか、
「北の海は、北の海だね。」とか。
「同義循環(トートロジー)」はある種の感慨を強めるための言い方(レトリック)である。
同じ語を繰り返し言うことによって、その語に含めた「感慨」が強調され飛躍する。
あるいは、その語を「超越」する。
「同義循環」を言う者は、その気分(感慨)が広がって消えていくのに癒される。
「お墓は、お墓だね。」という言い方の形は「同義循環」であるが。
最初の「お墓」と次の「お墓」は、本当は同義では無いという前提のもとに、「同義循環」はレトリックとして成り立っている。
「お墓」という既存の意味に、「お墓」というその人独自の、他人には共有しがたい意味が加わる。
当のご婦人は、そんなレトリックを意識して使ったのでは無いように見える。
本人も気づかないほどの、嘆息に近い「発語」だったのかも知れない。
私には「お盆」という行事そのものがトートロジーのように思える。
熱心な人は、繰り返し繰り返し墓に参る。
自宅と墓地を循環するのだ。
仏壇に線香をあげ、墓前に線香をあげる。
お盆期間中は毎日墓参りをする、という人も少なからずいる。
繰り返すことで、「お盆」という特別な行事の意味が、その人独自の新しい意味に塗り替わっていく。
父母や良人、あるいは子どもの霊を慰めるために、線香を焚き手を合わせる行為を繰り返す。
そのことで、いつしか自身の気持ちが、亡くなった人達の存在を超える、というトートロジー。
そうでなければ、墓に参らないし、今を生きていくことができない。
秋の気配。 |