2013/09/28

「ノックしてください」という貼り紙のある部屋のドアを、ひたすらノックし続ける男

ポプラの木
ポプラ。

大きなポプラの木を見ると思い出す。
その学生寮の中庭には大きなポプラの木が立っていた。
巨大な木造のアパートメント。
太平洋戦争が終了するまでは、歩兵の兵舎だったとか。
二階建ての一棟に、70室から80室ぐらいの部屋があった。

そういう横長の居住用木造建造物が三棟と奥に一棟、ほぼコの字型に配置されている。
三棟のうちの一棟は女子寮。
奥の一棟は、売店と「集会所」。
周囲には、古城の石垣がぐるりと。

その学生寮の一室のドアに「ノックしてください」と貼り紙があった。
ある寮生が、そのドアを、試みにノックした。
「何の用?」と室内から声。
「いや、ノックしてくださいと書いてあるから。」
「だから、何の用で、ノックしたの?」
「ただね、ノックしてくださいと書いてあるから。」と寮生は繰り返した。

「あのね、それはね、用のある者は、いきなり部屋に入らないで、ノックしてボクの許可を得てからボクの部屋に入ってくれってことなの。」
部屋の住人は、奥の方で声を大きくした。
「ただね、ノックしてくださいと書いてあるから、ノックしたらどうなるのかと思って、ノックしただけなんだけど。」

「なんだと、用もないのに、いきなりドアをノックしたのかい。」と住人。
「だって、ドアにノックしてくださいと貼り紙があれば、何だろうと思って、普通、ノックするんじゃないか。」と寮生。

「キミ、今、普通って言ったね。普通の人間は、用もないのにドアをノックしないよ。」と、立ち上がる気配も無く、住人が言った。

「それが普通なら、この学生寮の全てのドアに、ノックしてくださいと貼り紙があるはずじゃないか。この部屋のドアにだけ、ノックしてくださいと貼り紙があるから、これは普通じゃない、何の訳だろうとノックしてみたのさ。」と寮生。

「あのね、貼り紙の有る無しじゃないんだよ。プライベートな生活に対するエチケットの問題なんだよ。それにキミは普通と言ったり、普通じゃないと言ったり、言ってることが矛盾してるじゃないか。」

「じゃ、このドアのわざとらしい貼り紙には、何の意味も無いって訳か。ノックしてくださいってのは、そういう議論を吹っかけるための口実って訳か。」

「へんてこな議論を吹っかけているのは、そっちじゃないか。用がないなら、さっさと立ち去ってくれないか。」
「いや、なぜこの部屋だけノックしてくださいと貼り紙があるのか、これは、本当は何のサインなのか、その辺を究明するまで、ボクはここを離れないからね。」と寮生。

そんな「言い争い」が延々と繰り返される薄暗い廊下。
時の動きが静止したサンクチュアリ。

古風な保護空間。

ひょっとしたら、自分はあの天井の下で、まだ暮らしているんじゃないかと思えてくるぐらい、その思い出の実在感は薄れていない。
たしか住所は、中区二の丸一の一。
寮生は、自分たちの住処を「メイガッカン」と呼んでいた。

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