蝉の死骸と駄菓子

駄菓子
【駄菓子の詰まった木箱。】


山形県の長井市というところで、木の幹に止まったまま死んでいるアブラゼミが見つかり話題になっている。
そういう記事を「YAHOO!ニュース」で読んだ。

「YAHOO!ニュース」が、山形新聞のウェブサイトにある「アブラゼミの記事」を転用。
その記事を要約すると。
長井市平山で造園業を営んでいる男性が、木の幹に止まったまま死んでいるアブラゼミを発見したとのこと。

山形新聞のウェブサイトの記事を読んだ多くのユーザーが、死んでいながらも風雨に耐えて、木の幹にしっかりとつかまっているセミの姿に感動。
その評判が、山形県内に広がったという。
とってもローカルな出来事。

その山形新聞のウェブサイトの記事を、「YAHOO! ニュース」 で取り上げたら、今度はネットで全国的に話題になっているようなのだ。

見つかったアブラゼミの写真がある「写真付きの記事」(山形新聞11月22日)のリンクにアクセスが集中して、山形新聞のウェブサイトの該当ページが、いっとき閲覧できなくなったという。

同時刻にアクセスが集中するほど、この記事が注目を集めたのだから、こういうのも「ネット用語」で言う「炎上」に当たるのだろう。

しかし、アブラゼミの死骸はそんなに珍しいものではない。
秋口に林の中で蟻に喰われかけたものをよく見かける。
それこそ、木の幹につかまったままの死骸も、私はときたま見かけている。

セミの脚の爪が樹皮にひっかかったままになって、それで死骸が落下しないのだ。

アブラゼミの死骸を話題にした人達は、そんなアブラゼミの姿に何を見たのだろう。
死んでもラッパを放さなかった兵士のことが話題になったのは、何時の時代だったか。

アブラゼミながらも、死んでも生きる姿勢を崩していないという姿に「生きることの意味」を感じて、多くの人達が勇気づけられているということなのだろうか。

一種の美談?

一方、この記事を読んだ私は、何を感じたか。
それは、駄菓子。

子どもの頃、拾ったセミの死骸を糸に結んで振り回しながら駄菓子をかじっていた。
なんというバカガキ。
その事を思い出して、アブラゼミの死骸から駄菓子を連想してしまった。

この連想は、「生きることの意味」からは、かけ離れたものだ。
駄菓子の「駄」は、「馬」と「太」という部分で出来ている。
太った馬は役に立たない。
でも駄馬は、荷役という労働で充分役に立っている。

それはさておき。
駄菓子とは、高級菓子と比較して安価な菓子のこと。
庶民の子どもの間食となっている菓子である。

「生きる意味」について考えることは、真摯な心情と言える。
心情としては、ハイクラス。
高級な心情。

それに対して、蝉の死骸に駄菓子を連想するなんて、私の連想は低級なのだろうか。
少なくとも、高級な美談からはかけ離れたものである。

蝉の死骸と駄菓子。
ちょっとシュールな関係。
世間的には、認め難い発想である。

だが、私の思い出のなかでは、シュールでもなんでもない。
過去にあった現実なのである。
その現実も、今考えるとちょっと不思議な世界のような気もするが・・・

「セミの死骸を糸に結んで振り回しながら駄菓子をかじっている子ども」

いやいや、私が育った津軽半島の村には、周囲にそんな子どもが大勢いたような記憶がある。

小生物の生や死が、玩具だった子ども時代。
そういう風に「死」と触れ合っていた思い出が、私に連想させたのだ。
蝉の死骸と駄菓子。
リアルな発想が、一方ではシュールな発想に受け取られる。

木の幹に絡みついているアブラゼミの死骸を「美談」とは思わないのが私のリアルな発想。
アブラゼミの死骸に「夢」や「希望」も感じない。
勇気づけられもしない。
「生きる姿」の偶像だとも思わない。

子どもにとって甘美だった駄菓子が、決して甘美ではなかったものとたまたま同居していた。
そんな不思議な世界を、「木の幹に止まったまま死んでいるアブラゼミ」の話題で思い出したのだった。
それだけのこと。

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