2014/02/27

冬の日数が足りないと、何が少なくなるの?

冬の日数が足りない
カレンダー的には、あさっての3月1日から春。
が、実感としては、春はかなり前から始まっていたような気がしている。
青森の今年の冬は、雪が少なかったし、冬らしい寒さの日も少なかった。
そういう冬の日数が、足りないと言えるほど、私的には短い冬だった。
働いている日数が足りないと、稼ぎが少ない。
では、
(1)冬の日数が足りないと、何が少なくなるの?
日銭稼ぎの自営業者としては、冬の日数が足りないことにさえ違和感をおぼえる。
冬の日数が少ないと、流通業では、冬物の売り上げが少ない?

直感
違和感とは、変な感じだと思うインスピレーション。
インスピレーションとは、直感。
変な感じだと直感する。
直感するのは、そんなにめずらしいことではない。
思えば、常に直感しながら生きてきた。
その直感が、合っていたのかいなかったのか。
なんて、問うことはあまりない。
いま、こうして生きている。
直感に合わせて、事実を認識してきたのだろう、たぶん。
それが独特の視点となって、独特の私的世界観をつくってきた。
だから、めいめいが生きている世界である日常に対する印象は、めいめい人によって違う。
冬に対する認識も、めいめい様々。

雪
雪の朝。

妄想が広がる
少ない冬の日に対する違和感が、いろいろな妄想となって日常に色を加える。
妄想とは、地球温暖化に関するものとか、冷夏がやって来て不景気が猛威をふるうとか。
生活のなかで膨らんだ妄想は、ささやかな日常の居場所を圧し縮める。
日常の居場所とは、日々の暮らしの安定した情緒を感じる場所のこと。
それは現実の居間であったり、心の休息所であったり。

上記、「(1)冬の日数が足りないと、何が少なくなるの?」のひとつの答えは、「冬と言う日常の居場所」かもしれない。
冬の日数が足りないと、冬というイメージ(情報)でかたどられる日常の居場所が少なくなる。
冬を思い返す時、私が楽しかったのも私が辛かったのも、私の日常の居場所においてのことだから。
私はそこで、冬という「知識や認識や形態や具体的な内容」と関わって生きている。

日常の居場所
こうして「冬と言う日常の居場所」では、生活のなかで冬に対する感性が育まれる。
その感性が育たないうちに、今年の冬が終わってしまった。
 少ない冬の日は、違和感(直感)を生じさせ妄想を育んだ。
狭まった「冬と言う日常の居場所」で、広がる妄想に脅える。

「青森の今年の冬は、雪が少なかったし、冬らしい寒さの日も少なかった。」
という文章は、
「今年の私の冬は、雪が少なかったし、私の冬らしい居場所も少なかった。」
と書いても良い。
それぞれが生きている世界である日常に対する印象は、それぞれ人によって違う。
そう書く事で、ほんの少し「日常の居場所」が広がる。