「でも、何かしているだろう、しているはずだよ。」
という意見に対して、「起きてから、飯食ってウンチする以外は、ただぼーっとしてるだけだなぁ。」
とつぶやいた。
その表情が、どこか世俗離れしている。
無為
「おお、無為の境地だね」 と誰かが言う。「無為」とは、その字の通り、何もしないこと。
強いて言えば、為す無かれ。
月並みな言い方をすれば、ぶらぶらしていること。
ぶらぶらするという行為も「無為」の範疇に入るらしい。
「ぶらぶら」は目的の無い行為で、結果を想定していない行動だから。
ということは、「無為」とは「目的が無く、具体的な結果を得ようとしない行為」ということになる。
無為に過ごすための典型的な方法は、一日中寝ていること。
だがそれは、「寝る」という目的があり。
「動きたくない」 という目的があり。
「今日は怠けて楽だった」という、目的に見合った結果が得られる。
「何かをするのが面倒だから寝ている」という状態は「無為」とは言えないのかもしれない。
「何もしない」という方法に、「何もしたくない」という目的があってはいけないのだ。
と、こんなことを考えると、「無為に過ごす」ことは、なかなかむずかしいことのように思えてくる。
リラックスと自己再生
「無為」とは自分から何も行わないで自然にまかせることだと言う人がいる。なるほど、睡眠も食事も排せつも、生きる為の生理作用という意味では自然なことだ。
人為的な目的を持たずに自然に生きることが「無為」なのだと。
「無為」にも結果が生じるが、それは人為的な意味での有用(有益)な「 結果」では無いと言う。
「へえ、それって、どんな結果なんだい?」
「さあ、どうだろうねぇ、空っぽなものなんじゃない。」
「空っぽかね、ずいぶんスッキリしてるねぇ。」
空っぽとは、規制も思い込みもない世界。
条件も前提も無い世界。
つまり、なんのしがらみもない状態。
もし、そういう状態があれば、最高のリラックス。
最高の自己再生力かもしれない。
リラックスも自己再生も自然なこと。
休日には、「何もしない」という方法も、たまには有りかな。
「何もしない」という方法について
やるべきこと(家事・勉強・仕事)があるのに何もしない、というのは「単なる怠け者」とも言える。しかし、仕事が山積しているのに、あえて「何もしない」のは、その後の激務を思えば、相当「勇気」が必要。
ダラダラと仕事に向かうマンネリを排除するために、思い切ったリセットが良い結果を産むこともあるかもしれない。
「何もしない」 という行為に目的を持たない、というのが「無為」の意味。
「無為」による心機一転は、自然の成り行き。
「目的のための行為」でたまった残留物を掃除する方法と言えるかも知れない。