七戸町にある県史跡「奥州街道の蒼前平一里塚」

蒼前平一里塚の説明看板。


小川原湖へ行く途中、青森県の県史跡となっている七戸町の「蒼前平(そうぜんたい)一里塚」に寄った。
みちのく有料道路と国道4号線の交差点から、広域農道を乙供(おっとも)方面にクルマで1〜2分走ると右手に「蒼前平一里塚」の看板が目に入る。
看板に導かれて、乗用車8〜10台分ぐらいの広さの駐車場へ。
駐車場の奥は、東北電力の上北変電所になっている。

蒼前平一里塚についての説明

駐車場の隅には、東屋が設置されていた。
この東屋は、奥州街道跡の緑地の方に設置されるべきでは、などと「あら探し」を楽しみながら看板を見物。
上の写真の看板には、「蒼前平一里塚」についての説明が書かれている。

以下は、その説明書きの全文。

青森県史跡 (昭和三十七年六月青森県史跡に指定)

蒼前平一里塚

 日本における一里塚の起源は、平泉の藤原清衡が、白河から外ヶ浜(青森)までの間に、金箔をはった卒塔婆を立て、里程標としたことに求められるが、その後、織田氏、豊臣氏の施策を経て、それが全国的に築かれるに至ったのは通例徳川氏の慶長9年(一六〇三)のこととされている。
 しかし、実際一里塚が奥州街道の盛岡以北にまで及んだのはまだ少し後のことであり、県南地方は慶安2年(一六四九)頃、上北地方は承慶元年(一六五二)頃であったと思われる。
 一里塚は、江戸日本橋を起点とし、三十六町を一里として一里ごとに、街道の両側に底面直径五間の大きさに造られ、その上に樹木を植え、里程標としたものであり、旅人に里程を教え、休憩の便に供したものであるが、この蒼前平の一里塚は、日本橋から数えて第百七十六番に位するものであった。
 一里塚築造以来三百数年を経た現在、日本各地の一里塚の多くが減失し、或は無関心のため損壊の危険にさらされている中にあって南部地方には、今なお比較的多くの一里塚が残されているが、この蒼前平の一里塚が一番よく原形を保っている。
 当時これらの一里塚が、ただ単に旅行者に便益を与えただけでなく、これによって混沌としていた里程が整理され、江戸を中心とする交通が整い、国内産業ならびに文化の向上発展が大いに促進されたことを考えるとき、私達はこの一里塚を生きた交通資料、貴重な文化財として長く大切に保護管理しなければならないと思う。

青森大学
 学長 盛田 稔

東北電力株式会社建立

史跡見物の楽しみ

なるほど、一番よく原形を保っている点において、とても貴重なものであるらしい。
当時のこの付近の、奥州街道の雰囲気がちょっと味わえる史跡となっている。
江戸時代の街道と旅の様子を、林立する赤松の樹間で、空想できる楽しい場所であった。
街道に沿った集落や、そこでの暮らし。
それを眺めながら、通り過ぎる人たち。
昔の人は、なんと気の遠くなるような旅をしていたことだろう。
自身の系譜の跡を追えば、そういう旅をしていた人に辿り着くかもしれない。
史跡とは、そこを訪れた人が誘い込まれる「はるかな日常の生活史」なのだね。
遠い昔の日常に思いを馳せると、馳せた思いがリフレッシュして現在に還ってくる、なんてことがあると思う。
それが史跡見物の、ひとつの楽しみ。


奥州街道跡についての説明看板。

奥州街道跡。写真右の盛り上がった箇所が一方の一里塚。

窪んだ筋が奥州街道跡。

この盛り土が、もう一方の一里塚。

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