2014/06/29

つがる市木造(きづくり)大溜池の畔に建つはずだった「亀ヶ岡城」

大溜池周辺図。


縄文館が畔にある大溜池を見物しようとしたが、「瞰湖台」みたいな所は見当たらない。
大溜池は鬱蒼とした森に囲まれていて、なかなか岸辺には近づけない。
また、近づけたとしても、岸辺が私有地のため、立入禁止になっていたり。

ようやっと、岸辺と接している道路を見つけ、大溜池の一端を眺めることが出来た。
その地点が、「大溜池周辺図」の「写真撮影地点」と記したところ。
赤丸のポイント。
この記事に添付している写真は、ここから撮ったもの。
小雨模様の曇り空だったので、冴えない写真になってしまった。

この溜池がこんなに入り組んだ形になっているのは、この付近の丘陵の地形が入り組んでいるからだ。
大溜池は、弘前藩2代目藩主、津軽信枚(のぶひら)によって作られたという。

津軽信枚は、1622年、この地に「亀ヶ岡城」を築こうとした。
ところが、築城の途中、江戸幕府から「一国一城令」が発せられたため、廃城となり、「亀ヶ岡城」は幻となった。
城の堀にする予定だった「大溜池」は溜池として、そのまま残したという。


津軽亀ヶ岡城図(カルコ展示物)

津軽亀ヶ岡城の図(カルコ展示物)


「写真撮影地点」あたりを境に西側は丘陵地帯(大溜池)、東側は水田地帯となっている。
この境界線上に堤防を築けば、西側の丘陵地帯の低地部分に、雨水や湧き水や、雪解け水などの流入水が溜まり、入り組んだ溜池が出来上がる。

溜池のタイプから言えば、「谷池」の一種になるのだろう。
溜池は、入り組んだ丘陵地の森に囲まれていて、なかなか景観が良い。
「リアス式湖岸」というようなイメージ。
こうして出来上がった見栄えのある溜池に、信枚公はどんな名前をつけようとしたのだろう。
築城を断念した失意のあまり、そのまんまの「大溜池」という味気ない名前をつけて仕舞いにしたのかもしれない。

縄文館内の「木造亀ヶ岡考古資料室 」受付でいただいた「つがる市資料館ガイド」というパンフレットには「亀ヶ岡城跡」という項目がある。
以下はそのパンフレットからの抜粋。

木造考古資料室の北隣地区は亀ヶ岡城の予定地であった。しかし徳川幕府の「一国一城令」に従い、築城途中でやむなく廃城となった。この付近の台地を囲む「大溜池」は亀ヶ岡城の堀として予定されたものであるほか、現在、城跡には築城時をしのぶ土塁や巨大な空堀などの遺構が残っている。なお、過去には「亀ヶ岡遺跡発見のきっかけ=亀ヶ岡城の築城」とする説もあったが、これは誤りで城跡と亀ヶ岡遺跡の間には1kmほどの距離がある。 


大溜池。右側のスロープは小舟を着水させるためのもの。


睡蓮の花が咲いていた。


入り組んだ外観の大溜池。


亀ヶ岡遺跡についての最初の記録とされる「永禄日記(1623年)」の写本「館野越本(たてのこしぼん)」には、亀ヶ岡城の正式名は「近江野沢城」と記されているという。
もしこの地にお城が出来ていたら、現在の亀ヶ岡や木造館岡、木造大湯町は、その昔、にぎやかな城下町になっていたかもしれない。

信枚公の、築城による都市開発と新田開発との同時開発は、幻のプロジェクトとなった。
都市と農村との同時発展は、夢のまた夢。
森に囲まれたリアス式湖岸の「大溜池」の 雰囲気は、なかなか神秘的だ。
そのムードは、この地に眠っている幻のプロジェクトがもたらしているのかもしれない。

木造地区の新田開発が本格的に着手されたのは、1682年頃、弘前藩4代藩主津軽信政(のぶまさ)によってであるとされている。
信政公は、岩木おろしや日本海からの強風・飛砂をおさえるために、この地の農民にクロマツやカシワを植えさせ、屏風山の植林事業に力を注いだという。

大溜池は、この頃から、また息を吹き返し、農業用貯水池として活躍したに違いない。
城下町という都市は出来なかったものの、木造地区の新田開発が進展したのは、幻の亀ヶ岡城のおかげもあったかもしれない。


森に囲まれた大溜池。