雑談散歩

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なぜ縄文時代に興味を持つのか

土偶頭部(是川縄文館)。

縄文文化とは

縄文文化は、日本列島において、紀元前1万3千年頃に始まった先史文化。
自然と共生し、約1万年間にわたって持続可能な社会を形成したと推測されている。
自然と共生するというスタイルは、アウトドアライフ好きな人達からみれば、それは、とても魅力的な世界のように思われることだろう。

世界の他地域の先史文化とは異なり、本格的な農耕や牧畜に着手することなく、狩猟・採集・漁労を生業の基として定住を達成。
協調的な社会を作り上げ、それを長期間継続したと推測されている。
縄文文化は、世界4大文明と言われているメソポタミア・エジプト・インダス・黄河文明とほぼ同時代に存在したと考えられている。


土偶(是川縄文館)。

縄文文化を知る意義

どんな行いにも、それをするのにふさわしい「価値」を見出さずにはいられない私たちは、縄文文化を知ることの「意義」についても、いろいろと考えずにはいられない。

(1)縄文人は、日本人の直接の祖先(?)と考えられ、縄文文化は、日本の基層文化であると考えられているから、それを知ることには重要な意義がある。
(2)縄文人の、自然と共生する知恵を学んで、それを現代に生かすことに意義がある。
(3)温故知新。古代の日本を知ることは、現代の日本について考える上で重要である。
(4)現在の文明社会のなかで忘れられつつある「縄文人の心」を未来に伝えることに意義がある。
などなど、意義付けとして、教育的な内容が盛りだくさん。

また、以下のような記載も。
「北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群」の世界遺産暫定一覧表に記載された文章のなかで、「顕著な普遍的価値の根拠」と題された項目には以下に抜粋した文章がある。

縄文文化は、温暖湿潤な完新世の気候の下に自然と人間が共生し、約10,000年もの長期間にわたって狩猟・漁撈・採集を生産基盤とする定住生活によって繁栄・成熟した世界史上稀有(けう)な新石器時代の文化である。
その文化的伝統の物証である考古学的遺跡群は、特に落葉広葉樹林が安定的に拡大する時期の東日本において傑出して見られ、地球上のある文化的地域において長期間にわたり継続した自然と人間との共生の在り方を示す資産として顕著な普遍的価値を持つ。

「普遍的な価値を持つ」とは、縄文文化を知ることへの「意義」として、多くの人達を満足させるフレーズであるに違いない。

私が、なぜ縄文時代に興味を持つのか

それは、日本最大級の縄文集落跡であると言われている特別史跡、三内丸山遺跡が近所にあるから。
また、亀ヶ岡遺跡、小牧野遺跡、大平山元遺跡、是川遺跡など、話題性に富んだ遺跡が近距離に散在しているから。
つまり、全国的な規模で話題になっているものが身近にある。
とすれば、それを見物せずにはいられない。

そして、それらを見て回っているうちに、私の興味の方向は、上記「縄文文化を知る意義」とは、だんだんと違ってきている。
それは、多くの人達がそうであるように、私も縄文時代の土偶や土器の形・文様の不思議さに魅力をおぼえるようになったこと。
実のところ 、それだけの好奇心。
縄文時代から何かを学ぼうという志は、ほとんど無い。

人は遠い世界に憧れを感じる。
縄文時代の土偶や土器や生活用具や装身具は、遺物としてではなく、遙かに遠い世界の現実として私たちの目の前にある。
そういうふうに見えている。
私たちは、これらを見ることによって、1万年以上前から約3千年前の現実に想いを馳せることが出来るのだ。
縄文土器や土偶の文様が、想像も出来ないほど遠い世界への「時間旅行」を可能にしている。
私たちが縄文土器や土偶を見るということ自体が、懐かしさをともなった、不思議な体験のような気がするのである。
あちこちの展示館を見て回っているうちに、そういう好奇心が育っている。


土器(是川縄文館)。

縄文時代に親近感を覚えるのはなぜか

日本に文字文化が発生したのはいつ頃か?
飛鳥時代か、古墳時代か、弥生時代中頃か、いろいろな推測がある。
さらに遡って、縄文時代には、文字は存在しなかったと言われている。
文字によって記された「言葉」の遺物が存在しないのが縄文文化のひとつの特徴となっている。
縄文人は、情報の伝達や感情の表現や物事の記録の手段として「文字」を持たなかった。
縄文土器の文様が文字的な役割を果たしていたのかどうか?
それが何かの「しるし」として機能していたのなら、文様はかなり文字的であると思うのだが・・・。
現代人が接しているような「文字」は、縄文時代には無かったらしい。

そのことが、私を縄文時代に近づけている。
古代の文字に書かれた言葉を読み、それを理解するためには、それ相応の知識が必要だ。
難しい勉強もしなければならない。
しかし縄文文化には、古文書のようなものは存在しない。
縄文時代(日本の新石器時代)に対する義務教育で得た知識があれば、縄文土器の観賞は出来る。
いや、そういう前提無しでも、縄文土器や土偶とストレートに向き合える。
それは縄文人と私たちに共通の生活の道具であるからかもしれない。
もしかしたら、私たちに馴染み深い民間信仰やコミュニケーションや「遊び」の道具であるからかもしれない。

むしろ、文字の無い世界は文字を必要としなかった世界なのだ。
現代は文字無しには人や社会とはつながり得ない。
仕事の指示、物事の説明、契約、文化、法律、学問などなど、すべてに文字は必要不可欠。
必要不可欠であると同時に、私たちの生活には不要な文字があふれているかもしれない。

文字の無い縄文世界では、文字以外のもので人が他人や社会とつながっていたのではなかろうか。
文字でがんじがらめな現代からすれば、文字の存在なしに成り立っている世界は魅力的ではないだろうか。

わずかではあるが特徴的な遺構と遺物だけが現存している縄文文化。
それは、より複雑さを増した生産体制や社会構造や祭祀や対外関係などが見られる縄文以後の古代社会よりも、私には身近な存在として感じられる。
縄文文化の謎解きは、かなり難解なものでも、縄文文化の謎に接するには好奇心があれば充分なように思われる。

考古学に素人な私でも、空想の縄文時代を楽しむことが出来るから。
そして、この興味深い「時間旅行」を通して触れることのできる縄文文化は、アイデアの宝庫であるような気がする。
私同様、そういうところで、多くの人達が縄文時代に親近感を覚えるのではなかろうか。
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