「尻八館」の城址がある摺鉢山(すりばちやま)を散策

駐車場の案内看板。

「尻八館(しりはちだて)」の名称 

今にも雨が落ちそうな曇天のなかを、青森市後潟にある「尻八城祉」をミニハイキングした。
駐車場の案内看板には「尻八城祉」と記されているが、この場所の呼び名はいろいろあってややこしい。
「尻八館(しりはちだて)」とか「シリポロチャシ」とか「伝尻八館」とか「山城公園」とか。

「尻八城祉」は、この遺構が中世にあった山城の跡と言われているため、そう呼ばれているのだろう。
「尻八館」は城を館(やかた)に置き換えたもの。
「シリポロチャシ」はアイヌ名らしく、「チャシ」は、「高い場所に築かれ、壕や崖などで周囲と切り離された施設。柵。城。館」であるとWikipediaにある。

「伝尻八館」は、この山城跡が尻八館であるとは特定されておらず、「伝尻八館」と称するのが正しいのではないか、という意見から。
青森県立郷土館では、この呼称を使っている。
「山城公園」は、かつて「山城」があった公園だから。

上の写真の案内看板には(超古代遺跡)と記されているが、いまひとつ意味不明。
(超素晴らしい古代遺跡)てな感じとも受け取れる。
遺跡に対するこの看板の「建て主」の熱意の表れなのだろう。

「超古代遺跡」と書かれると、ペルーの「マチュピチュ」が思い浮かぶが、「シリポロチャシ」は、今はただの山の中。
この遺跡の埋もれた山を愛する「超ファン」がいらっしゃるということなのだろう。

「尻八館」は中世の山城(やまじろ)の跡。
その山城が、標高190mの摺鉢(すりばち)山の山上に築かれていたという。

説明看板 

「二の丸」にある説明看板の「尻八館の由来」には、以下のように記されている。

「中世紀の城で、古いアイヌのチャシを土台として、築城した山城である。築城したのは安東氏で、鎌倉時代の寛喜二年から、室町(足利)時代の永享七年まで、約二百五年間続いた城である。

城主で判明したものは、次の通りです。

寛喜二年(1230年)安藤一族が、潮潟の摺鉢山に尻八館を築いた。

貞永元年(1232年)安倍三郎成季が尻八館で、治領代頭役に任ぜられた。

正安2年(1300年)安東孫次郎師季 (祐季)が尻八館城主となる。後に秋田の土崎湊城主に転ずる。

明徳4年(1393年)安東四郎道貞が尻八館城主となる。道貞は本家の貞季(愛季)四男で、地名の潮潟を姓として、潮潟四郎道貞と称した。

応永19年(1412年)七月一日道貞死す。戒名は飛鳥院殿道行夫禅大居士位。

応永32年(1425年)道貞の長男重季が鉢巻館より転じて、尻八城主となりて潮潟四郎重季となのる。南部義政の娘の里子姫を妻として正季はその子である。

永享7年(1435年)六月に尻八館は南部義政に攻め破られた。この時に十三才の政季が生け捕られたが、南部の血を引いているので、八戸にて育てられ、成人の後に田名部の旧安東家の知行を継いだ。

以上」

しかし、この「解説」には署名が無い。
上記の通り、「以上」で締めくくられているだけで、この文章の出所が明らかにされていないのが不思議だ。


城主安東氏?の経済力

 発掘調査で、建物や門、柵のほか、中国の竜泉窯(りゅうせんよう)の青磁を含む陶片などが多数出土したらしい。
このことによって、当時十三湊を拠点に交易で栄えていた安東氏の経済力の一端が明らかになったと言われている。
しかし、この館の主が安東氏であったかどうかは、今のところ定かではない。

発掘調査は、県立郷土館を中心に調査委員会が組織され、1977年から3年間にわたって行われたという。
その結果は、地元紙「東奥日報」の記事によれば以下の通り。
(1)城郭のおおよその構造が把握された。
(2)この遺構は、陶磁器など出土品から14-15世紀の館跡と推定される。
(3)出土品は1,800点。陶磁器1,450点(うち少なくとも中国や朝鮮半島から渡ってきたものが124点)、金属類210点、石製品130点、漆器10点。
(4)日本最古の古銭和同開珎も1枚あった。
(5)当時(14-15世紀)、京都や鎌倉で使われていた茶道具も見つかった。

これ以後の発掘調査は行われていないとのこと。

また、この場所の城主が安東氏であるということを裏付ける出土品はまだ出ていないという。
安東氏が城主だったのは、別の館なのでは、という疑問があり、この場所を「伝尻八館」と県立郷土館では名付けているらしい。
「言い伝え」は存在するが、それを裏付けるものが、今のところ無いらしい。
謎の多い山ではあるが、それがまた「シリポロチャシ」の魅力にもなっている。

「尻八館」への道順 

尻八館へは国道7号線から国道280号線を蓬田方面に向かって走る。
バイパスよりも旧道(松前街道)を走った方が案内標識があってわかりやすい。
後潟駅を過ぎたあたりに、「尻八館(シリポロチャシ)」を示す道路標識があり、そこの細い住宅地の道路へと左折する。
道なりに進むとバイパスを横切る形になる。
交通量の多いバイパスとの交差点には信号が無いから要注意。
バイパスを横切って、水田に囲まれた農道を進む。
新幹線の高架橋をくぐって道なりに右折して進むと、道は山の中に延びて、舗装道路が途切れる。
そこから、未舗装のゆるい坂道をちょっと上がると、調整池(ため池)の畔に出る。
駐車スペースの傍らに、「尻八城址」の案内看板が立っている。

「シリポロチャシ」の意味 

さて、この場所の呼び名(地名)が面白い。

「シリポロチャシ」と「尻八館」と「摺鉢山」。

「シリポロ」と「シリハチ」と「スリバチ」の語音が似ている。
「尻八館」は、アイヌ語「シリポロチャシ」の漢字表記「尻八」+日本語訳「チャシ=館」であると推測できる。
「摺鉢山」も、アイヌ語「シリポロ」の音に漢字表記「摺鉢」をあて、「山」という地形を表す日本語を加えたもののように思える。

では、アイヌ語名の「シリポロ」とは何か。
北海道や青森県に「尻」のつく地名が多い。
「利尻」、「尻別」、「尻屋」「尻労(しっかり)」などなど。

「シリ」はアイヌ語で「島」とか「峰」のこと。
「ポロ」が「札幌」や「美幌」と同様だとすると、アイヌ語で「大きい」とか「多い」とかの意。
これでアイヌ語「シリポロチャシ」を日本語訳すると「峰が大きい館」、あるいは「峰が多い館」となるのでは。
確かに、「尻八館」の置かれている地形は、峰が多い。

大倉岳につながる各峰々に「曲輪(くるわ)」を置いた、巨大な「山城」だったのかもしれない。
「尻八館」はあまり知られていない所だが、きっと、全国の山城ファンにはたまらない佇まいの空間であるに違いない。
ここには、そういう雰囲気が漂っているように思う。


遊歩道(登山道)の出発地点

ハイキングコースの概要 

上の写真の、登山道案内標識から、遊歩道終点の「本丸跡」までは時間にして約30分~40分。
途中、「二の丸」の手前にかなり急傾斜の坂道がある。
遊歩道は概ね快適。
晴れていれば、楽しい史跡散策が楽しめることでしょう。

ここは「山城公園」とも呼ばれているが、トイレも水道も無いので要注意。

整備された階段状の道。陣場はこのすぐ上にある。標識は、「陣場を経て尻八城祉へ」という意味か。


陣場。


「山城公園」と彫られた石碑。裏を見ると昭和6年4月1日の期日が彫られてあった。



案内標識がところどころに。


杉林の中の遊歩道。


遊歩道の開けた場所から尻八城址である摺鉢山が見える。


遊歩道は原っぱを過ぎて、また森の中へ。


森の小径。


心地よい遊歩道。


丸太で作られた階段状の急傾斜の道。丸太は半ば朽ちかけている。


急峻な道に沿って、「堀道(土塁?)」が並んでいる。


平らな場所に出た。


山上の「二の丸」。


「二の丸」の平らな山上から、「本丸」に向かう下りの尾根道を見下ろす。


「尻八城祉へ」という看板の指し示しているところに「二の丸」がある。


「二の丸」から、「本丸」に向かう尾根道に下りたところに「堀」がある。


快適な尾根道。


遠く大倉岳を望む。


「二の丸」から「本丸」へ続く道の途上から、陸奥湾が見える。


本丸跡。


「尻八城祉自然遊歩道終点」の黒い看板の手前に「土門」と書かれた看板が転がっている。


駐車場横のため池。弘前藩時代に作られたものであるとか。

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