芭蕉の不安な雪雲「京まではまだ半空や雪の雲」
京まではまだ半空や雪の雲
松尾芭蕉
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松尾芭蕉
芭蕉の俳句には天空を意識したものが多いと、このごろ考えている。
句の中に天と地を配置して、限られた字句による俳句の表現に、文字制限を超えた空間的な広がりや奥深さを持たせようとしている。
芭蕉が泊まった鳴海の宿に、歌人である飛鳥井雅章公が、以前お泊まりになったことがあった。
歌人は、宿の主に旅の感想を詠じたものを残した。
歌人は、宿の主に旅の感想を詠じたものを残した。
「京の都から、ずいぶん遠くまで来てしまった。今は都とは海を隔てたところにいる。」というような意味のことを書き残した。
宿の主からこのことを聞いて、芭蕉が作った句だと言われている。
京まではまだ半空や雪の雲
鳴海の上にかかった雪雲と京の都を結びつけている。
その雪雲が都まで行き着くにはまだ半空の距離があると。
半空(はんくう・なかぞら)とは天のなかほどという意味。
これは、垂直的な天のなかほどなのか、水平的な距離感なのか。
鳴海から京の方角にかかっている空のことだから、水平方向である。
遠いことを表現するのに、「遙か空の彼方」などと言ったりする。
鳴海から京の方角にかかっている空のことだから、水平方向である。
遠いことを表現するのに、「遙か空の彼方」などと言ったりする。
それは、現実的な距離感でもあり、生きてはたどり着けないかもしれない距離感であるかも知れない。
上空の雲は、雪雲であり芭蕉自身であるという「ダブルイメージ」のように感じられる。
はたして雪雲は、そのまま雪雲として京に到達できるのだろうか。
そういう芭蕉の不安が、この句に映し出されていると感じるのは私だけだろうか。
旅人としての不安な心情を、神々しさと寂しさを合わせ持った冬空と交錯させるダイナミックな手法と言うべきか。
そういう心情を抱えながら、「まだ半空」ある、まだまだ旅は続くという芭蕉の覚悟のようなものが感じられる。
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