芭蕉の雪見の句

江戸や京の粋人達は、雪見、花見、月見と、季節の節目に出現するものを眺めて、自然の変化を楽しんでいたようだ。

雪国では、1メートルも積もった雪のなかで、雪見などという遊びは、お呼びでない。

たまに白い雪が、庭などにうっすらと積もり、たちまち融けてしまうような土地柄で、雪見は、花見や月見同様に感情をくすぐる遊びとなったのであろう。

旅の途上、しばらく名古屋にとどまることにした芭蕉は、方々の「俳句会」に呼ばれている。
一面にうっすらと初雪が降り積もれば、その「俳句会」が「雪見句会」に変わる。

ためつけて雪見にまかるかみこ哉
松尾芭蕉

「ためつけて」は漢字で書くと「矯めつけて」となるらしい。
この句では、「かみこ」の皺を伸ばすことの意。
「かみこ」は「紙子」と書く。
「紙子」は紙で作った衣服のこと。
軽くて保温性に優れ、おまけに安価だったらしい。
「まかる」は出かけるの謙譲語。

芭蕉にとっては、冬の旅の防寒着であった紙子。
その防寒着の皺を伸ばしていると、紙子が紙人形のように芭蕉の手元を離れて雪見に出かけてしまった。
というようなイメージが思い浮かぶ。
雪見のために庭巡りをする紙子を、じっと眺めている芭蕉。
そういう情景だとすると、その不思議な感覚が面白い。

もうひとつ、雪見の句。

いざ行む雪見にころぶ所まで
松尾芭蕉

雪で滑って転ぶところまで、手に手をとって、雪見に出かけよう、というような「恋」の歌のように聞こえる。
転んだら転んだで楽しいじゃないか、というノリである。
このノリは小唄的だなと思ったら、後の世で、この句が小唄の文句に採用されたらしい。
東京・向島の雪見船(屋形船)を歌った小唄に芭蕉の句が引用されている。

雪国育ちの年配者なら、雪の上で下駄を履いて歩いた経験があるはず。
そうすると、雪質にもよるが、下駄の歯と歯の間に詰まった雪が、雪だるまのようにだんだんと大きくなる。
やがて、歩けないほど下駄にくっついた雪塊が大きくなって、雪上の下駄履き散歩人は転んだりする。

雪で滑って転ぶのではなく、下駄に付いた雪のせいで転ぶのだ。
当時の人達は、雪が積もると、そういう遊びもしたのではあるまいか。

「笈の小文」の旅が終わってから、芭蕉はこの句を推敲して、「いざさらば雪見にころぶ所まで」としたらしい。
この句にこだわった芭蕉には、どんな思いがあったのだろう。
案外、雪見歩きで、一緒に転びたい女性が念頭にあったかもしれない。
この句に、「隠れ恋歌」的なイメージを覚えるのは見当違いだろうか?

一年前の、芭蕉43歳のときは、「月雪とのさばりけらし年の暮」と詠んだりしている。
月見、雪見と、さんざん遊び歩いているうちに、もう年も暮れてしまった。
いい年こいているのによくやるぜ、というような感じだろうか。

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