春風邪は7日で「ほぼ完治」か?
「春の風邪」が7日目で「ほぼ完治」した。
「完治」の根拠は、山スキーが楽しめたから。
まあ、だいたい治ったと思ったから、残雪の山へ出かけたのだが。
その結果、身をもって、春風邪からの「ほぼ完治」を実感した次第。
歳をとると、「完治」という言葉に大きな魅力を感じる。
目の前が開けて、希望の光が差し込みそうな言葉の響き。
まるで、展望の開けた山頂に立っているみたいな・・・・・・。
でも、「完治」と言い切ってしまうと、少しの問題もない「完璧な治癒」という、絵に描いたような状態が思い浮かぶ。
「本当に、これで終わりなんですか?人生はいろいろあるんじゃないの?」という疑念が湧く。
「完治」の対義語は「発病」。
それは、スタートとゴール。
7日前の状態(スタート)と今の状態(ゴール)。
春風邪の発病から「ほぼ完治」まで7日間を要した。
それは、またスタートラインに立ったということか?
でも、現在、私は、春風邪を「発病」していない!?
完治とは「完全に治った」という意味。
では、よく使われる「ほぼ完治」という言い方は、どういう意味なのだろう。
「ほぼ」は九分九厘という意味。
「完治」とは100%のこと。
1%の病状が残っていても「完治」とは言えない。
という訳で、「ほぼ完治」という状態はあり得ないという主張も成り立つ。
九分九厘な100%なんてあり得ない。
99はあくまでも99で、100にはなれない。
そこをなんとか。
断定しないところが日本的表現の良いところではないか。
「完治」と断定しないで、「ほぼ」を付けて、「ほぼ完治」と柔和な表現にしましょう・・・と。
「ほぼ」は、枕詞(まくらことば)ではないが、ほぼ枕詞的。
「100%な状態」を表す言葉の前について「100%」を導き出すための枕詞。
そして、「ほぼ完治」では、「完治」の前に付いて、ある種の情緒を添えている。
「春風邪はだいたい治っているけれども油断しちゃいけないよ」という自身や相手の体をいたわる情緒。
あるいは、自身で治ったと思っていても、一歩下がって、自分はまだまだですという「謙虚な余韻?」を匂わすための「ほぼ」。
「完治」という晴れやかで、冷厳で、計測的な印象の言葉に、「ほぼ」を付けることによって、「同情的な余韻」や「謙虚で好ましい余韻」が漂う。
その余韻とともに、病人は元の常態に回復する。
先ほど、「ほぼ完治」という状態はありえないと書いたが、実際は「完治」という状態こそあり得ないのではないだろうか。
高齢に近づきつつあるこの頃、特にそう感じることである。
どこかに微かに病状が残っていながら回復したという状態が「ほぼ完治」であり、そういう状態が「病気が治った」ということなのでは。
特に高齢者は、「完治」に限りなく近い状態をキープしつつ、1パーセント程度の症状が常態化しているような気がする。
春風邪は、7日でだいたい治ったが、鼻水が出たり、声がちょっと鼻声だったり。
喉が嗄れていたり、くしゃみが出たり。
時々、鼻が詰まったり、耳が詰まったり。
でも、体のだるさは抜けて、元通りの活動が出来るようになった。
それで、「ほぼ完治」なのか?
いや、元通りの活動が出来るから「ほぼ完治」なのではない。
微かな症状があっても、現在風邪をひいていないのなら「ほぼ完治」。
元通りの活動ができるようになったのは、春風邪が治ったからではなく、現在風邪をひいていないからなのだ。
だから、私の春風邪は、7日で、「ほぼ完治」。