蕪村の内省と芭蕉の発散
春雨やもの書(かか)ぬ身のあはれなる
与謝蕪村
蕪村62歳頃の句だとされている。
私が、この句と対応しているように感じる芭蕉の句に「不精さや掻き起されし春の雨」というのがある。
春の雨には催眠作用があるのか、うとうとと寝入ってしまった芭蕉の姿が思い浮かぶ。
それとも、昼日中、不精にも寝入ってしまったところを春の雨に、掻き起されたというイメージか。
「掻き起されし」とは「抱き起こされた」というような意味。
「天と地」という空間的な視点でこの句を読むと、以下のようなイメージになる。
地上で不精に惰眠をむさぼっていたら、いつのまにか、天から落ちてくる清浄な雨に抱き起こされてしまった。
春の雨は、天からのインスピレーションなのか、春の雨とともに「閃めき」が降ってきた。
というイメージの方が、芭蕉の空間感覚が感じられて面白い。
蕪村も春雨に「インスピレーション」を感じたのか、芭蕉の句とイメージが重なるように思われる。
「春雨やもの書ぬ身のあはれなる」の「あはれなる」には色々な意味がある。
- 趣深く感じる。
- すばらしい。
- 身につまされて悲しい。
- 心引かれる。
- 気の毒だ。
- いとしい
- 尊く、ありがたい。
「あはれなる」の意味の取り方で、この句のイメージが、だいぶ変わってくる。
私は蕪村が、(3)の意味で、この「あはれなる」という言葉を使っているのでは、と思っている。
そのイメージはこうだ。
せっかくインスピレーションのような春雨が降っているのに、それに触発されて、何もものを書こうとしない己自身が悲しい。
自身を情けなく思っている内省の句のようである。
自身の不精さを嘆いているのかもしれない。
そのイメージはこうだ。
せっかくインスピレーションのような春雨が降っているのに、それに触発されて、何もものを書こうとしない己自身が悲しい。
自身を情けなく思っている内省の句のようである。
自身の不精さを嘆いているのかもしれない。
芭蕉も、同じ状況にあると想定してみる。
でも、芭蕉は、自身の不精さを反省しない。
居眠りをしていたら、「春の雨」というインスピレーションに抱き起こされてしまったよ、と独り台詞。
居眠りをしていたら、「春の雨」というインスピレーションに抱き起こされてしまったよ、と独り台詞。
芭蕉のモノローグは、内省と言うよりも「発散」に近い。
広い空間の中へ自己を言い放っている。
旅をすることで自己実現を図ってきた芭蕉は、悔いることよりも進むことを選んでいるのかもしれない。
では、蕪村の句と芭蕉の句のどこがどう重なるのか。
「春雨やもの書ぬ身のあはれなる」と「不精さや掻き起されし春の雨」。
「春雨や」(蕪村)と「春の雨」(芭蕉)。
「もの書ぬ身」(蕪村)と「不精さや」(芭蕉)。
「あはれなる」(蕪村)と「掻き起こされし」(芭蕉)。
「あはれなる」という蕪村の「内省」の言葉に対応するのは、「掻き起こされし」という覚醒の空間に放たれた「発散」の言葉。
似たような状況下での、蕪村の内省と芭蕉の発散。
蕪村は、内省することで、己の領域を広げていく。
芭蕉は発散することで、己の領域を広げていく。
なにやら、イメージ的に対応していませんか?
もっともこれは、私の空想に過ぎないのだが。
広い空間の中へ自己を言い放っている。
旅をすることで自己実現を図ってきた芭蕉は、悔いることよりも進むことを選んでいるのかもしれない。
では、蕪村の句と芭蕉の句のどこがどう重なるのか。
「春雨やもの書ぬ身のあはれなる」と「不精さや掻き起されし春の雨」。
「春雨や」(蕪村)と「春の雨」(芭蕉)。
「もの書ぬ身」(蕪村)と「不精さや」(芭蕉)。
「あはれなる」(蕪村)と「掻き起こされし」(芭蕉)。
「あはれなる」という蕪村の「内省」の言葉に対応するのは、「掻き起こされし」という覚醒の空間に放たれた「発散」の言葉。
似たような状況下での、蕪村の内省と芭蕉の発散。
蕪村は、内省することで、己の領域を広げていく。
芭蕉は発散することで、己の領域を広げていく。
なにやら、イメージ的に対応していませんか?
もっともこれは、私の空想に過ぎないのだが。
蕪村しみじみ
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