芭蕉の意志「痩せながらわりなき菊のつぼみ哉」
「痩せながら」にはふたつのイメージがあるように思う。
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◆松尾芭蕉おもしろ読み
- ひとつは「痩せたまま」の意で未成熟・未発達というイメージ。
- もうひとつは、「痩せてはいるが」という逆接的なイメージ。
(1)のイメージでは「つぼみ」も痩せた弱々しい印象である
「学研全訳古語辞典」によると「わりなき」には以下のような意味がある。
- むやみやたらだ。道理に合わない。分別がない。無理やりだ。
- 何とも耐え難い。たまらなくつらい。言いようがない。苦しい。
- 仕方がない。どうしようもない。
- ひどい。甚だしい。この上ない。
- この上なくすぐれている。何ともすばらしい。
痩せながらわりなき菊のつぼみ哉
松尾芭蕉
(A)痩せ衰えて生きる道理のない菊の蕾なのだ。
蕾のまま枯れ果ててしまう運命にある。
せっかく幼い顔を出した蕾なのに、なんと哀れなことだろう。
と、感傷的なイメージが真っ先に広がる。
「痩せながら」と、痩せ衰えた一本の菊の姿を描き出す。
その姿は痛々しい。
(B)その菊が蕾を持つことは「わりなき」ことであるというイメージ。
菊が菊である以上、その菊がどんな状態であろうが蕾ができてしまうのはどうしようもないことであるという意味合いが感じられる。
それが菊として生きることなのだ、と。
どちらにしても、痩せ衰えた菊の運命を描いているようで感傷的な傾向が強い。
それは芭蕉の誘導のせいだろう。
芭蕉はセンチメンタルなイメージの世界に読者を誘導しつつ、同時に別の世界を展開している。
この句は、松尾芭蕉44歳の時の作とされている。
44歳と言えば「笈の小文」へ旅立った歳。
「笈の小文」にこの句の収録が無いから、旅に出る前の句なのだろう。
旅に出る前は、ひとつ句を作るにしても、これからの旅のことが頭から離れなかったのではなかろうか。
「旅の詩人」であり「劇の詩人」である芭蕉は、句を感傷だけでは終わらせることはないと私は勝手に空想している。
句を感傷で終わらせないことで、この句は、より多くの人々に受け入れられながら生き延びる。
いわゆる普遍化するのである。
この句がどういうイメージを展開するかは「わりなき」という語にかかっていると思う。
上にあげた「わりなき」の(1)~(4)は、どちらかと言うとマイナスの意味合いが濃い。
それに反して、(5)はプラスのイメージである。
この句のマイナスイメージを強調すると、どうしても感傷的な色彩が濃くなる。
それではプラスイメージだとどうなるだろう。
「痩せながら」は現状を表し、「つぼみ哉」は現状に反する未来を表しているように感じ取れないだろうか。
(C)今はやせ衰えているが、この菊の蕾は、この上なくすぐれた菊の蕾であるのだと、蕾が見事な花を咲かせることに対する切望の念を詠っているようにも思える。
一方視点を替えてこの句を読んでみると、もしかしたら「痩せ」ているのは菊のことではないかも知れないという感想が湧く。
痩せているように見えるのは句の作者。
「わりなき菊」は将来の「わりなき句」のこと。
もちろんこの場合の「わりなき」は、この上なくすぐれているという意。
「つぼみ哉」は現状はまだ蕾なのだという意志。
(D)傍目には、私は年老い、やせ衰えて見えるだろうが、もっと優れた句を咲かせるためのまだ蕾なのだというイメージ。
こう読むと、芭蕉の、俳諧に対する強い意志が感じられて面白い。
(A)と(B)は現状は現状のままに継続せざるを得ないという現状肯定のセンチメンタルな「劇」。
(C)は現状を肯定しつつ、未来は現状の継続ではなく、もっと好展開するであろうという切望の「劇」。
(D)は現状を否定しつつ、将来の可能性に目を向けるプラス思考の「劇」。
(A)と(B)は、「現実を嘆く心」と、わりなしと「現実を受け入れる心」の対比。
(C)は、「現実を受け入れる心」とわりなき未来を「切望する心」の対比。
(D)は、「句の作者の現状」と、「将来の句」あるいは「作者の意志」との対比。
このような対比の積み重ねが芭蕉の句に「劇」としての重厚さを備わせていると思っている。
ひょっとしたらこの句にも、ネガティブをポジティブへ反転させる芭蕉のトリックが仕組まれているのかもしれない。
目に見える世界を17文字で表そうとする芭蕉であるから、もっといろいろな仕掛けがこの句に施されているかもしれない。
それを読み取るのは、私の「痩せながらわりなき菊のつぼみ哉」であり、多くの人々の「痩せながらわりなき菊のつぼみ哉」であると思う。
(A)痩せ衰えて生きる道理のない菊の蕾なのだ。
蕾のまま枯れ果ててしまう運命にある。
せっかく幼い顔を出した蕾なのに、なんと哀れなことだろう。
と、感傷的なイメージが真っ先に広がる。
「痩せながら」と、痩せ衰えた一本の菊の姿を描き出す。
その姿は痛々しい。
(B)その菊が蕾を持つことは「わりなき」ことであるというイメージ。
菊が菊である以上、その菊がどんな状態であろうが蕾ができてしまうのはどうしようもないことであるという意味合いが感じられる。
それが菊として生きることなのだ、と。
どちらにしても、痩せ衰えた菊の運命を描いているようで感傷的な傾向が強い。
それは芭蕉の誘導のせいだろう。
芭蕉はセンチメンタルなイメージの世界に読者を誘導しつつ、同時に別の世界を展開している。
この句は、松尾芭蕉44歳の時の作とされている。
44歳と言えば「笈の小文」へ旅立った歳。
「笈の小文」にこの句の収録が無いから、旅に出る前の句なのだろう。
旅に出る前は、ひとつ句を作るにしても、これからの旅のことが頭から離れなかったのではなかろうか。
「旅の詩人」であり「劇の詩人」である芭蕉は、句を感傷だけでは終わらせることはないと私は勝手に空想している。
句を感傷で終わらせないことで、この句は、より多くの人々に受け入れられながら生き延びる。
いわゆる普遍化するのである。
この句がどういうイメージを展開するかは「わりなき」という語にかかっていると思う。
上にあげた「わりなき」の(1)~(4)は、どちらかと言うとマイナスの意味合いが濃い。
それに反して、(5)はプラスのイメージである。
この句のマイナスイメージを強調すると、どうしても感傷的な色彩が濃くなる。
それではプラスイメージだとどうなるだろう。
「痩せながら」は現状を表し、「つぼみ哉」は現状に反する未来を表しているように感じ取れないだろうか。
(C)今はやせ衰えているが、この菊の蕾は、この上なくすぐれた菊の蕾であるのだと、蕾が見事な花を咲かせることに対する切望の念を詠っているようにも思える。
一方視点を替えてこの句を読んでみると、もしかしたら「痩せ」ているのは菊のことではないかも知れないという感想が湧く。
痩せているように見えるのは句の作者。
「わりなき菊」は将来の「わりなき句」のこと。
もちろんこの場合の「わりなき」は、この上なくすぐれているという意。
「つぼみ哉」は現状はまだ蕾なのだという意志。
(D)傍目には、私は年老い、やせ衰えて見えるだろうが、もっと優れた句を咲かせるためのまだ蕾なのだというイメージ。
こう読むと、芭蕉の、俳諧に対する強い意志が感じられて面白い。
(A)と(B)は現状は現状のままに継続せざるを得ないという現状肯定のセンチメンタルな「劇」。
(C)は現状を肯定しつつ、未来は現状の継続ではなく、もっと好展開するであろうという切望の「劇」。
(D)は現状を否定しつつ、将来の可能性に目を向けるプラス思考の「劇」。
(A)と(B)は、「現実を嘆く心」と、わりなしと「現実を受け入れる心」の対比。
(C)は、「現実を受け入れる心」とわりなき未来を「切望する心」の対比。
(D)は、「句の作者の現状」と、「将来の句」あるいは「作者の意志」との対比。
このような対比の積み重ねが芭蕉の句に「劇」としての重厚さを備わせていると思っている。
ひょっとしたらこの句にも、ネガティブをポジティブへ反転させる芭蕉のトリックが仕組まれているのかもしれない。
目に見える世界を17文字で表そうとする芭蕉であるから、もっといろいろな仕掛けがこの句に施されているかもしれない。
それを読み取るのは、私の「痩せながらわりなき菊のつぼみ哉」であり、多くの人々の「痩せながらわりなき菊のつぼみ哉」であると思う。
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◆松尾芭蕉おもしろ読み