ステキに仰々しいオオヨシキリの鳴き声「能なしの眠たし我をぎやうぎやうし」
私の仕事場の南側に葦の生い茂っている空地がある。
この中で、はっきりと聞き取れるのが「ギョギョジ」という鳴き声。
オオヨシキリが「「行行子・仰仰子」と呼ばれる所以である。
オオヨシキリは、繁殖のために、夏に日本に飛来する夏鳥である。
青森市周辺では、葦の茂っているところで、この仰々しい鳴き声を聞くことが出来る。
しつこいと言おうかくどいと言おうか、上記の甲高い鳴き声を繰り返して休むことが無い。
じっと耳をかたむけていると、情熱的で一生懸命な鳴き声にも聞こえてくる。
この声の主は雄で、雌を引き寄せようとして高らかに声を響かせているのだ。
やがて葦原の中に巣が完成し、卵のなかの雛がかえって巣立つ。
それまで、オオヨシキリの雄は昼夜を問わず泣き続ける。
オオヨシキリの鳴き声が止むころ、青森に本格的な夏が訪れるのである。
仰々しいとは、大げさであるという意味。
事実が実際よりも派手に表現されている様子をあらわしている。
しかし、オオヨシキリには派手に表現しなければならない事情がある。
一夫多妻な傾向があり縄張りを守る意識が強いオオヨシキリは、声をはりあげて働かなければならないのだ。
「オオヨシキリ」は夏の季語。
能なしの眠たし我をぎやうぎやうし
この句は、松尾芭蕉の俳諧日記である「嵯峨日記」におさめられたもの。
この空地に、毎年、夏の初めにオオヨシキリがやってくる。
今の時期は、朝早くから夕暮までオオヨシキリの鳴き声で、独りの仕事場がにぎやかだ。
葦原に生えた柳の枝に止まって、オオヨシキリが赤い口の中をのぞかせて、しきりに鳴いている。
その姿を写真に撮ろうとして、カメラを構えたら飛び去った。
人の動きに敏感な鳥である。
鳴き声から、オオヨシキリは「行行子(ぎょうぎょうし)」という異名を持っている。
私がオオヨシキリの鳴き声をリスニングして文字にすると以下のようになる。
「ゲォッゲォッゲォッギョギョジギョギョジゲッゲッゲッゲックエックエックエッ」
今の時期は、朝早くから夕暮までオオヨシキリの鳴き声で、独りの仕事場がにぎやかだ。
葦原に生えた柳の枝に止まって、オオヨシキリが赤い口の中をのぞかせて、しきりに鳴いている。
その姿を写真に撮ろうとして、カメラを構えたら飛び去った。
人の動きに敏感な鳥である。
鳴き声から、オオヨシキリは「行行子(ぎょうぎょうし)」という異名を持っている。
私がオオヨシキリの鳴き声をリスニングして文字にすると以下のようになる。
「ゲォッゲォッゲォッギョギョジギョギョジゲッゲッゲッゲックエックエックエッ」
この中で、はっきりと聞き取れるのが「ギョギョジ」という鳴き声。
オオヨシキリが「「行行子・仰仰子」と呼ばれる所以である。
オオヨシキリは、繁殖のために、夏に日本に飛来する夏鳥である。
青森市周辺では、葦の茂っているところで、この仰々しい鳴き声を聞くことが出来る。
しつこいと言おうかくどいと言おうか、上記の甲高い鳴き声を繰り返して休むことが無い。
じっと耳をかたむけていると、情熱的で一生懸命な鳴き声にも聞こえてくる。
この声の主は雄で、雌を引き寄せようとして高らかに声を響かせているのだ。
やがて葦原の中に巣が完成し、卵のなかの雛がかえって巣立つ。
それまで、オオヨシキリの雄は昼夜を問わず泣き続ける。
オオヨシキリの鳴き声が止むころ、青森に本格的な夏が訪れるのである。
仰々しいとは、大げさであるという意味。
事実が実際よりも派手に表現されている様子をあらわしている。
しかし、オオヨシキリには派手に表現しなければならない事情がある。
一夫多妻な傾向があり縄張りを守る意識が強いオオヨシキリは、声をはりあげて働かなければならないのだ。
繁茂している葦。 |
小林一茶に「行行子(ぎょうぎょうし)大河はしんと流れけり」という句がある。
しかし私は芭蕉の次の句の方が好きである。
「嵯峨日記」は、元禄4年(1691年)4月18日から5月4日まで、京都嵯峨にある「向井去来(むかいきょらい)」の「落柿舎(らくししゃ)」に滞在したときの日記とされている。
「客は半日の閑(かん)を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」という「木下長嘯(きのしたちょうしょう)」の言葉を引用して、「独(ひとり)住(すむ)ほどおもしろきはなし」と嵯峨日記に書いている。
「客は半日の閑(かん)を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」という「木下長嘯(きのしたちょうしょう)」の言葉を引用して、「独(ひとり)住(すむ)ほどおもしろきはなし」と嵯峨日記に書いている。
芭蕉は、落柿舎に滞在中、気楽な独居を楽しみ、世俗から離れて隠れ住むことに喜びを見出していたのかもしれない。
ときどき、怠け者のように、ひとりでのんびりとゴロゴロしていたわけである。
旧暦の4月18日から5月4日頃は、京都では初夏の気候。
旧暦の4月18日から5月4日頃は、京都では初夏の気候。
落柿舎の側の葦原では、オオヨシキリが忙しく動き回り、巣作りのために働き、けたたましい鳴き声をたてていたことだろう。
オオヨシキリが、あんなに一生懸命に働いているのに、自分は無能な者のようにひたすら惰眠をむさぼっている。
芭蕉の「止」と「ぎやうぎやうし」の「動」。
芭蕉の「静」と「ぎやうぎやうし」の「騒」。
芭蕉の「怠」と「ぎやうぎやうし」の「働」。
芭蕉の「怠」と「ぎやうぎやうし」の「働」。
その対比の面白さに、独り笑っている芭蕉のごろ寝姿が思い浮かぶ。
芭蕉のうたた寝のなかに、「ぎやうぎやうし」の鳴き声がとけこんで、庵の中の時間がけだるく過ぎていく。
はたして芭蕉は、「ぎやうぎやうし」から活を入れられたのだろうか。
それとも「ぎやうぎやうし」の鳴き声を子守唄に、惰眠の沼に沈み込んだのか。
いずれにせよ、うたた寝から覚めた芭蕉は「能なしの眠たし我をぎやうぎやうし」とつぶやいたのだ。