残雪の公園で、サンシュユの総苞片が徐々に開き始めている
平和公園の池に氷が張って、その上の雪が積もっている。 |
毎年この時期になると、青森市の平和公園の、サンシュユのことを記事にしている。
残雪のなかで、蕾をほころばせるサンシュユ。
白い残雪に、サンシュユの黄色い蕾がよく似合う。
そういえば、春一番に咲くマンサクの花も黄色だった。
サンシュユの総苞片(そうほうへん)から、黄色い蕾の頭がわずかに見える。 |
黄色い花は、まだある。
フクジュソウも黄色。
ちょっと遅れて咲く菜の花やタンポポも黄色。
早春に咲く花は黄色が多い。
花の少ない時期だから黄色い花は、よく目立つ。
残雪におおわれている早春の森の木々は、どちらかというと黒っぽい。
黒を背景にした黄色は、遠くからでも目につく。
まだ昆虫の少ない時期に、花粉を運ぶ昆虫を多数呼び寄せるために花の色を目立つ黄色にしているという説がある。
それが、黄色い花を早春に咲かせる植物の「繁殖戦略」だというのだ。
早春に咲く花の色に黄色が多いのはなぜか。
「植物学的」には、まだ解明されていないらしい。
前述の昆虫云々は、あくまでも一般的な推測にすぎない。
早春に咲く花の花期が長いのは、早春には受粉の媒介者である虫が少ないからだと言われている。
この説も、素人の私にはわからない。
単に、花期の長い樹種だけが生き残っているだけかもしれない。
ともあれ、サンシュユには早春に早く花を咲かせなければならない事情があるのだろう。
あるいは、気温が低い中でも花を咲かせることが出来るという能力でもあるのだろうか。
その両方が備わっているのか、サンシュユはせっせと花を咲かす。
秋には、赤い果実をたくさん作る。
そして渋赤く紅葉する。
たいした働き者だ。
素人の私にも、それはわかる。
この細い樹木を支えているのは、働き者の精神なのかもしれない。
いっぽう人間にとっては、残雪の中で花を咲かせてくれるサンシュユは喜ばしい存在。
暖かい春を待ち焦がれた人たちは、サンシュユの蕾を見て、一安心する。
開きかけた総苞片の中を覗き込む。
なんとすばらしい。
春を迎えた安堵感と蕾を愛でる気持ちが呼応する。
もしかしたらサンシュユもそんな気分かもしれない。
ようやく自身の花期を迎えた安堵感。
人々に見られて賞賛されるという植物的(?)な心地良さ。
花が咲くということは人間と自然との共鳴なのだと、あらためて思い知らされる。
ただ、公園の散歩者は、早春に花を咲かせなければならないサンシュユの植物学的な事情には、とんと疎い。
花の蕾を見て、心地良さにひたるばかり。
それもまた、人と植物の良い関係。
残雪の上を飛び回る昆虫といえば、アブやハエ。
そのアブやハエが好む色が黄色だという。
なるほどアブやハエは、黄色いものによくたかる。
たとえば、ウン〇。
おっと、失礼。
たくさんの蕾が、たくさんの総苞片に格納されている。 |
早春に咲く花の色に黄色が多いのはなぜか。
「植物学的」には、まだ解明されていないらしい。
前述の昆虫云々は、あくまでも一般的な推測にすぎない。
早春に咲く花の花期が長いのは、早春には受粉の媒介者である虫が少ないからだと言われている。
この説も、素人の私にはわからない。
単に、花期の長い樹種だけが生き残っているだけかもしれない。
ともあれ、サンシュユには早春に早く花を咲かせなければならない事情があるのだろう。
あるいは、気温が低い中でも花を咲かせることが出来るという能力でもあるのだろうか。
その両方が備わっているのか、サンシュユはせっせと花を咲かす。
秋には、赤い果実をたくさん作る。
そして渋赤く紅葉する。
たいした働き者だ。
素人の私にも、それはわかる。
この細い樹木を支えているのは、働き者の精神なのかもしれない。
いっぽう人間にとっては、残雪の中で花を咲かせてくれるサンシュユは喜ばしい存在。
暖かい春を待ち焦がれた人たちは、サンシュユの蕾を見て、一安心する。
開きかけた総苞片の中を覗き込む。
なんとすばらしい。
春を迎えた安堵感と蕾を愛でる気持ちが呼応する。
もしかしたらサンシュユもそんな気分かもしれない。
ようやく自身の花期を迎えた安堵感。
人々に見られて賞賛されるという植物的(?)な心地良さ。
花が咲くということは人間と自然との共鳴なのだと、あらためて思い知らされる。
ただ、公園の散歩者は、早春に花を咲かせなければならないサンシュユの植物学的な事情には、とんと疎い。
花の蕾を見て、心地良さにひたるばかり。
それもまた、人と植物の良い関係。
今年もにぎやかに咲いてくれることだろう。 |