花の雲鐘は上野か浅草か
東都花暦 上野清水之桜 著者:渓斎(国立国会図書館デジタルコレクションより)。 |
深川芭蕉庵のあった所は、現在の「東京都江東区常盤1-6-3」あたりとされている。
地図で見ると、芭蕉庵は隅田川の河畔にあったことになる。
上野の山や浅草は、芭蕉庵から隅田川を越えて北の方角。
位置関係をグーグル・マップで調べてみた。
芭蕉庵跡から上野公園までは、直線距離で4kmぐらい。
芭蕉庵跡から浅草寺までは、直線距離で3.5kmぐらい。
のんびり歩けば、いい散歩コースであると思う。
それぞれの標高は以下の通り。
芭蕉庵跡は、標高6m。
上野公園は、標高20mから26m。
浅草寺付近は、標高10m。
標高差で見ると、芭蕉庵から浅草の桜は見えなかったであろう。
上野の山の桜はどうだろうか。
江戸時代に木造3階建ての建物があったとしても、標高差14mから20mの上野の山は森のように見えていたのではあるまいか。
山に生えている木々の高さを加えると、上野の山はもっと高く見える。
まして江戸時代では、現在よりもずっと空気が澄んでいたはず。
上野の山に桜が咲き始める頃、江戸深川の住民たちは、ソワソワしながら北の方角に目を奪われていたのでは。
もう仕事が手につかない。
花の雲鐘は上野か浅草か
松尾芭蕉
貞享四年三月の作とされている。
上野の山は、江戸時代においても桜の名所であったらしい。
上の画像のように、上野の花見の様子が描かれた「浮世絵」が、いくつか残っている。
この句に出会ったとき、なぜか「花の雲鐘は 上野か 浅草か」と区切って読んでしまい、「雲鐘(うんしょう?)」って何だろうと悩んだ。
しばらくしてから、上のように区切って読むとどうも字数が変だなと気がついた。
花の雲
鐘は上野か
浅草か
上記のように読んだらスッキリ。
謎の霧が晴れた。
「鐘は上野か」とは、寛永寺の鐘のこと。
「浅草か」は、もちろん浅草寺の鐘。
浅草寺桜奉納花盛ノ図 絵師:豊国(国立国会図書館デジタルコレクションより)。 |
深川あたりでは、鐘の音が同方向から聞こえてくるので、今鳴った鐘は寛永寺のものだろうか浅草寺のものだろうかという「うたい文句」になる。
しかし、どちらの鐘の音かは、地元に住んでいればわかりそうなもの。
芭蕉は、わかっていながらも、あえて「上野か」「浅草か」と問いかけのように詠んだのだろう。
そのほうが空間的な広がりが感じられて面白い。
当時は、浅草も桜の名所だった。
芭蕉は、「鐘を鳴らして誘っているのは、上野の花なのか浅草の花なのか」と浮かれ気分でいたのかもしれない。
桜といっても当時はヤマザクラだったのではあるまいか。
ヤマザクラはソメイヨシノよりもピンク色が濃い。
芭蕉庵からは、上野の森にうっすらとピンク色の雲がかかったように見えたことだろう。
隅田川越しに眺める上野の山という設定にも、広い空間感覚があって面白い。
それこそ、俯瞰描写の浮世絵を見るようである。
今日は上野で花見。
明日は浅草で花見。
芭蕉は、花見と句会で忙しい。
句会が忙しければ、俳諧の宗師としての実入りも多い。
「鐘」は「金」のダジャレかな、なんて下世話なことを思うのは私ばかり。
一方この句には、病気で臥せっているときに作ったものなのではということを感じさせるものがある。
「上野か浅草か」という文句を、「掛声」のようにとれば威勢が良いが、弱々しい問掛けのようにも感じとれる。
病気で動けない身だが、北の方から聞こえてくる鐘の音が耳に入ると、思いは中空を飛んで上野や浅草を廻っている。
そういうイメージも感じられる句である。
また、花見弁当の広告コピーにも使えそうである。
この句を読むと、「今日は帝劇、明日は三越」という大正時代の名キャッチコピーが思い浮かぶ。
案外、当時の三越百貨店の広告担当者は、芭蕉のこの句が念頭にあったのかもしれない。
やはり、「古池や蛙飛び込む水の音」同様、簡単でわかりやすいものには、大衆性とともに普遍性がある。
トーシロながらそう思った次第。
花の雲 鐘は上野か 浅草か
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