処女作

学生時代の友人に小説家志望の男がいた。
1970年代の頃は、まわりにそんな学生が多かったような気がする。
「これが俺の処女小説だ、読んでみてくれ。」
彼はそういって、数枚の原稿用紙を私に手渡した。

「へえ~、おまえは、処女の小説を書いたのかい。」と私。
「いや、初めて書いた小説ってことだよ。」と小説家志望。
「バカだねぇ、それを言うなら処女作だろう!」
彼のまじめな顔つきを見ると、笑うに笑えなかった。
真剣味が感じられた。
あまりに真剣すぎて、「処女作」を「処女小説」と言い違えてしまったのだろう。

手渡された原稿に、「壁の穴」という題名が書かれてあった。

壁の穴
物音に気がついて昼寝から覚めた。
音のしたほうに寝ぼけ眼を向けると、壁の穴から出てくる黒い影が見えた。
「何者だっ!」と俺は叫んだ。
「売文業でゲス。」と男が言った。
「へっ?何だよ、それは。」
「名を問われたら姓名を名乗る。性別を訊かれたら男と答える。何者かと訊かれたら、床屋だとか船乗りだとか、生業を言うのがナラワシってもんだろう。」
痩せてひょろ長い背格好。
丸顔に丸い眼鏡をかけている。

「それにしても汚い部屋だねえ、おまけにクーラーも無い。」
男は部屋を見回しながら、そう言った。
そして、長い脚を組んで畳の上に座り込んだ。
「おい、なんか食うものないか。なんか食わせろや。」
売文業を名乗る男は、脚の膝を揺すりながらそう言った。

ヨタ者のくせに傲慢な態度。
いや、ヨタ者だから傲慢なのか。
俺は、枕元の目覚まし時計を男に投げつけた。
「黙れ!この野郎!」
目覚まし時計が回転しながらジリジリと鳴り響いた。
ジリジリと鳴り響きながら、男めがけて一直線・・・・・・・


この「小説」は、お決まりの「不条理風小説」だった。
投げつけた目覚まし時計が、自分めがけて飛んでくる。
壁から出てきた男は、結局は自身の成れの果てだったというのがオチ。

こんな風に肉筆の「小説」を読んだのは初めてだった。
それは、面白いとかつまらないとかではなく、妙に生々しかった。
初めて生々しい彼の声を聞いたような気がした。
「どうだった?」と彼に感想を訊かれたが、なんと答えていいのやら。
「ほんとうに処女作らしい小説だったよ。」と答えたのだった。

それ以来、「小説とは作者の生々しい声」という視点で小説を読むようになった。
すると今までとは違う世界が見えてきて、それはそれで面白かった。
「処女作」を読んだ効能だったのだろう。

その後の彼はと言うと、これもありきたりだが、小説家になったという話は聞かない。
案外、どこかで無名の「売文業」者として、生計を立てているのかもしれない。
プロの「売文業」者となった彼の文章を読んでみたい気もするが、全ては壁のなかの出来事。
青春のゆめまぼろし。
もう時間は、別々に進行している。

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