物忘れから出る老人の虚言癖
久しぶりに同年代の知人が訪ねてきて、いろいろと歓談した。
暮らしていた地域は違うのだが、子供の頃の話で盛り上がった。
彼女も、津軽地方の似たような田舎出身なので共通の話題はいくらでもあるのだ。
子供の頃は木の実や草の実をおやつ代わりによく食べたものだった。
グミや桑の実、スグリとか木苺とか。
甘くて美味しい食べ物は、野に山に豊富だった。
話が小さな柿のことに及んだとき、二人とも、その柿の名前を思い出せない。
100円玉よりもちょっと大きいぐらいの大きさで、黄色い実をつけるが、熟してくると黒紫色に変わってくる。
実が黄色いうちは、渋くてまだ食べられない。
津軽地方では、霜が降りて初雪が降る頃が食べごろであった。
熟したものは甘みが強くて、ちょっと干柿のような味がしたのだった。
あれは美味しかったと頷きながら、その「あれ」の名前が出てこない。
リンゴの小さいので姫リンゴというのがあったが、「あれ」を姫柿とは言わなかった。
私は、その柿の名前を去年の秋頃に口に出したことがあったが、今はどうにも思い出せない。
それが歯がゆい。
私は、野山の植物については、彼女よりもかなり詳しい方だった。
それは、彼女も認めているところ。
だから、「あれ」の名前を、どうしても私が思い出さなくてはならなかった。
私は、頭のなかで「ヤマナシ」のことを考えていた。
野生の梨で「ヤマナシ」というのがある。
とすれば、「あれ」は「ヤマガキ」だったかもしれない。
そうだ、「ヤマガキ」に違いない。
そう思い込むと「あれ」は「ヤマガキ」以外のナニモノでもなくなった。
私の虚栄心がそうさせる。
「あれは、ヤマガキだったね。」と私は言った。
「ヤマガキってね、柿の元祖みたいなものさ。」
「あのヤマガキを改良して、今日の柿ができたってわけさ。」
知ったかぶりの「虚言癖」が出ているのかと意識の片隅で思いつつ、私は能書きをたれていた。
彼女も「ああ、そうだったわね。」と言った。
「さすが、あんたはよく覚えているね。」と感心顔。
そうなのだ。
よく覚えていたのは事実。
「あれ」の映像は、脳裏に鮮明に残っている。
その像とコトバとの結びつきが、ほどけてしまっているのだ。
像を引き寄せても、繋がっているはずのコトバが行方不明状態。
コトバが、どこか思いの届かない世界を彷徨っている。
「あれ」は「ヤマガキ」という名前では無かったかもしれないという思いがずっと心に引っかかっていた。
そして、そんな思いを忘れかけた時、突然「豆柿」という名前が蘇った。
名前が蘇ったことで、その映像がより鮮明になって記憶のスクリーンに映し出される。
それは、清々しい気分だった。
失くして諦めかけていたものが、突然手元に舞い戻ってきたような感じ、と言えば大げさか。
「ヤマガキ」という柿も実在するのだが、「あれ」は「ヤマガキ」ではない。
「あれ」は確かに「豆柿」で、別名は「小柿」だった。
彼女にこのことを教えて、私の「虚言」を改めなくては。
そう思って、正しい名前を思い出したことを電話した。
そうしたら、「あら、そんなこと話したっけ?」というお返事。
物忘れから出る老人の虚言癖。
それを聞いても忘れてしまう老人。
虚言だけが花火のように打ち上がっては虚しく夜空に消えていく。
高齢化社会は、どこかで「虚言文化社会」を築きつつあるのかもしれない。
◆関連リンク
★エンタメ読物一覧へ
暮らしていた地域は違うのだが、子供の頃の話で盛り上がった。
彼女も、津軽地方の似たような田舎出身なので共通の話題はいくらでもあるのだ。
子供の頃は木の実や草の実をおやつ代わりによく食べたものだった。
グミや桑の実、スグリとか木苺とか。
甘くて美味しい食べ物は、野に山に豊富だった。
話が小さな柿のことに及んだとき、二人とも、その柿の名前を思い出せない。
100円玉よりもちょっと大きいぐらいの大きさで、黄色い実をつけるが、熟してくると黒紫色に変わってくる。
実が黄色いうちは、渋くてまだ食べられない。
津軽地方では、霜が降りて初雪が降る頃が食べごろであった。
熟したものは甘みが強くて、ちょっと干柿のような味がしたのだった。
あれは美味しかったと頷きながら、その「あれ」の名前が出てこない。
リンゴの小さいので姫リンゴというのがあったが、「あれ」を姫柿とは言わなかった。
私は、その柿の名前を去年の秋頃に口に出したことがあったが、今はどうにも思い出せない。
それが歯がゆい。
私は、野山の植物については、彼女よりもかなり詳しい方だった。
それは、彼女も認めているところ。
だから、「あれ」の名前を、どうしても私が思い出さなくてはならなかった。
私は、頭のなかで「ヤマナシ」のことを考えていた。
野生の梨で「ヤマナシ」というのがある。
とすれば、「あれ」は「ヤマガキ」だったかもしれない。
そうだ、「ヤマガキ」に違いない。
そう思い込むと「あれ」は「ヤマガキ」以外のナニモノでもなくなった。
私の虚栄心がそうさせる。
「あれは、ヤマガキだったね。」と私は言った。
「ヤマガキってね、柿の元祖みたいなものさ。」
「あのヤマガキを改良して、今日の柿ができたってわけさ。」
知ったかぶりの「虚言癖」が出ているのかと意識の片隅で思いつつ、私は能書きをたれていた。
彼女も「ああ、そうだったわね。」と言った。
「さすが、あんたはよく覚えているね。」と感心顔。
そうなのだ。
よく覚えていたのは事実。
「あれ」の映像は、脳裏に鮮明に残っている。
その像とコトバとの結びつきが、ほどけてしまっているのだ。
像を引き寄せても、繋がっているはずのコトバが行方不明状態。
コトバが、どこか思いの届かない世界を彷徨っている。
「あれ」は「ヤマガキ」という名前では無かったかもしれないという思いがずっと心に引っかかっていた。
そして、そんな思いを忘れかけた時、突然「豆柿」という名前が蘇った。
名前が蘇ったことで、その映像がより鮮明になって記憶のスクリーンに映し出される。
それは、清々しい気分だった。
失くして諦めかけていたものが、突然手元に舞い戻ってきたような感じ、と言えば大げさか。
「ヤマガキ」という柿も実在するのだが、「あれ」は「ヤマガキ」ではない。
「あれ」は確かに「豆柿」で、別名は「小柿」だった。
彼女にこのことを教えて、私の「虚言」を改めなくては。
そう思って、正しい名前を思い出したことを電話した。
そうしたら、「あら、そんなこと話したっけ?」というお返事。
物忘れから出る老人の虚言癖。
それを聞いても忘れてしまう老人。
虚言だけが花火のように打ち上がっては虚しく夜空に消えていく。
高齢化社会は、どこかで「虚言文化社会」を築きつつあるのかもしれない。
◆関連リンク
★エンタメ読物一覧へ