この記事で1558記事目ということで
「思えば遠くへ来たもんだ」という歌がある。
14歳のころ、鉄道のレールに耳をあてて遠い旅路を夢見ていた少年がいた。
その少年が故郷を離れて、今では女房子ども持ちになっている。
そういう男が、眠れない夜に酒を飲みながら昔のことを思い出す。
夜汽車の汽笛を聞くたびに、少年だったころのことや20歳の失恋したときのことを恋しく思い出すという歌である。
過去をセンチメンタルに思い出しながら、同時に「この先どこまでゆくのやら」と、未来をも「望郷」している。
ひょっとしたら歌詞に表れていない架空の未来から、今現在を思い出している歌なのかもしれない。
こんなことを書いたのは、今日のこの記事で、このブログの記事数が1558記事目になったからだった。
1558記事か、と思ったとき「思えば遠くへ来たもんだ」という武田鉄矢(海援隊)の歌が頭に流れた。
そうたいして遠くへは来ていないのだが。
6000記事も7000記事も書いている方がいらっしゃるから、1558記事のブログなんてざらにある。
まだ「ざら」の途中なのだ。
「ざら」ながらも考えたのは、このまま書き続けていけば、どうなるのだろうということ。
インターネット上にゴミ記事を撒き散らすことになる、とは思いたくない。
実際そうなっていないと信じている。
検索エンジンに弾かれていないし、一定数のアクセスもある。
このままブログを書き続けていけば、「この先にどんな世界が見えるのか?」。
このことをブログを書く人は、誰でもが考えているのではあるまいか。
よく言われていることに以下のようなことがある。
ブログは読み手の存在を前提に書かれる。
14歳のころ、鉄道のレールに耳をあてて遠い旅路を夢見ていた少年がいた。
その少年が故郷を離れて、今では女房子ども持ちになっている。
そういう男が、眠れない夜に酒を飲みながら昔のことを思い出す。
夜汽車の汽笛を聞くたびに、少年だったころのことや20歳の失恋したときのことを恋しく思い出すという歌である。
過去をセンチメンタルに思い出しながら、同時に「この先どこまでゆくのやら」と、未来をも「望郷」している。
ひょっとしたら歌詞に表れていない架空の未来から、今現在を思い出している歌なのかもしれない。
こんなことを書いたのは、今日のこの記事で、このブログの記事数が1558記事目になったからだった。
1558記事か、と思ったとき「思えば遠くへ来たもんだ」という武田鉄矢(海援隊)の歌が頭に流れた。
そうたいして遠くへは来ていないのだが。
6000記事も7000記事も書いている方がいらっしゃるから、1558記事のブログなんてざらにある。
まだ「ざら」の途中なのだ。
「ざら」ながらも考えたのは、このまま書き続けていけば、どうなるのだろうということ。
インターネット上にゴミ記事を撒き散らすことになる、とは思いたくない。
実際そうなっていないと信じている。
検索エンジンに弾かれていないし、一定数のアクセスもある。
このままブログを書き続けていけば、「この先にどんな世界が見えるのか?」。
このことをブログを書く人は、誰でもが考えているのではあるまいか。
よく言われていることに以下のようなことがある。
- 文章が上手になる。
- 表現力が身につく。
- いろいろ理解が深まる。
- 論理的な思考力が発達する
- 内面が豊かになる。
- 知的資産になる。
などなど。
ブログは読み手の存在を前提に書かれる。
読み手の存在を意識して書くから、上記のような「副産物」が得られるのかもしれないが。
果たしてそうだろうか。
というのも、1558記事書いた経験上言わせてもらえば、書けば書くほど「?」ばかりが増えるという現実があるからだ。
「?」って知的資産なのか。
というよりもなによりも、「?」ばかりでは、ユーザーの役に立つ情報とは言えない。
なぜなら、ブログとは第一に、ユーザーの役に立つ情報でなければならないからだ。
役に立つ情報といっても、その内容は様々である。
なぜなら、ブログとは第一に、ユーザーの役に立つ情報でなければならないからだ。
役に立つ情報といっても、その内容は様々である。
というわけで、この頃は「CorelDRAW」について書いていることが多くなっている。
「CorelDRAW」について書くには、実際の手順にしたがって事実を書いていけば良い。
こうやればこうなるという現実は、そう「ざら」にない。
それに日本では「CorelDRAW」の解説本が出版されていないので、試行錯誤ながら「CorelDRAW」の「ハウツー」を書くのは発見に満ちていて楽しい。
「CorelDRAW」について書いているように、些細なことでも物事について書けたら、それは楽しい。
そう、コツコツ書き続けて「この先にどんな世界が見えるのか?」の答は「楽しい世界が見える。」ではなかろうか。
もちろん、そればかりではないが。
その反対ってこともある。
だが一面であれ、書くことは現実を楽しくするってことなのだと思う。
まだそういう一面が残っているということは幸いなことだと思う。
それはまた、ささやかながらも「発見」をユーザーと共有することでもある。
小発見でも、一記事一記事が小発見の積み重ねであれば、とりあえず「私の楽しさ」は意義深いものになるかもしれない。
中途半端な数字だが、この記事で1558記事目ということで、こんな風にまとめてみたしだいである。