はなのいろはうつりにけりないたづらにわがみよにふるながめせしまに

古くから、能を郷土芸能としている地域は、日本全国に割と多い。
青森県の東通村に伝わる郷土芸能。
能舞は、国の重要無形民族文化財に指定されている。
そんな立派な能もあれば、その地域だけでひっそりと行われる里神楽もある。
小さな村の、田舎芝居。
神楽のような能のような。

田舎芝居と一口に言っても、色々ある。
文字通り田舎で、お祭りの時に催される素人芝居。
都会の役者が演じるものでも、見ていられないほど下手くそな芝居。
それも田舎芝居。

舞台と言えるほどの施設もない。
そんな山間の村で、夏祭りの出し物として演じられる能舞。
演じる人が下手でも、「田舎芝居!」とやじる者はいない。

一般に能舞で使われる能面は、彫り込まれた立体的なものがほとんど。
この山村では、ただの平板に目の穴を開け、口の穴を開け。
塗料で眉や鼻や頬を描いたものを使っている。
村の老人たちは、このお面を「板面(いたづら)」と呼んでいた。
「いたづら」という呼び方には、それはそれで、それなりの古風な趣が感じられる。

この「板面」はリバーシブルになっている。
表が翁なら裏が鬼神だったり。
貧しい山村の倹約精神が、そうさせているのである。
はて、翁と鬼神が同時に出る場面では、どうすることやら。

そんな「素人の心配」をよそに、今年も村の青年会で夏祭りの準備が進められている。
青年会と言っても、かなりの高齢者で占められているのだが。

やはり祭りのメインは能舞。
翁の役をやるのは、村はずれに一人住まいしている老人。
翁であるからこの老人に面など不要と思われる。
しかし、素顔が怒りっぽい顔つきなので、やはり柔和な翁の板面が必要である。

開催日が間近に迫って、今夜も独りで熱心に舞を練習している老人。
ふと気がつくと、板面の裏面の塗料が汗で溶け出したのか、老人の鼻に色が移っている。
板面の染料が鼻の頭との摩擦で、鼻に色移りしたものと思われる。
翁の裏は、恐ろしげな鬼神。
鬼神を描いたサイケデリックな原色が、老人の鼻に。

癇癪持ちの老人は、板面を脱ぎ捨てて床に投げつけた。
それでも気がおさまらずに、足で板面を蹴ったりした。
だが、すぐに正気にかえった。
「蹴りな!そんなに蹴りーな!」と声を出して、怒りを制した。

大事なお面である。
村人の共有財産である。
そう思うと、老人の心に自制の念がよみがえった。
「蹴りな!そんなに蹴りーな!」

鼻の色は移りに蹴りな板面(いたづら)に。
鼻にお面の裏の色が移ったとしても、怒って板面にあたって蹴ったりしてはいけない。
老人は気を取り直したが、興奮したせいでひどく疲れた。

今夜はこれで終いにしよう。
自宅に向かって、山道をトボトボ歩いていると、何やら白いものが降ってきた。
「はて、冬でもないのに。」

老人は、その白いものを手で受けてじっと見た。
見てびっくり。
これは、我が頭の白髪ではないか。
それが夜の闇を縫うように、降り落ちる。

我髪夜に降る、とは。
さては、鬼神の板面の祟ではなかろうか。

白髪は、最初短めのものが降っていたが、それがだんだん長めのものに変わってきた。
その長さは、まるで鬼神の髪の毛のようである。
鬼神の長めの髪は、背の方で縞になって垂れている。
長め背縞に。

その髪の縞を、背で揺らしながら舞うのが鬼神の演技の見せ所なのだが。
今は、そんなことはどうでもよかった。
ただただ怖かった。
老人は、恐ろしさのあまり、知らずに駆け出していた。

山道を鬼神のごとく駆け上がる翁。
山の柏の葉が風にざわめく。
老人の首の後に、ピタリと冷たい手が。
「ひえーっ、ひえーっ。」
それは、夜露に濡れた柏の葉だったのだが・・・。

「ああ、おそろしや。」
長めの髪で背が縞になっている鬼神の姿が、老人の頭から離れない。
我髪夜に降る、鬼神の長めの髪で背が縞に。
鼻の色は移りに蹴りな板面に我髪夜に降る長め背縞に。

「ひえーっ、ひえーっ。」
老人の叫び声が、谷にこだまする。

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