「問わず語り」という慣用表現について

「長い沈黙の後、彼女が問わず語りに言い出した話は、僕を身震いさせた。」
なんてのは、よく目にする文章である。

今まで何度もこんな文章を目にして、私は何の抵抗もなく読み流していた。
それがあるとき、この文章はちょっと変ではないかと思うようになった。
そう思いはじめると、私のなかでこの文章は、変以外のなにものでもないものになってしまっていた。

この文章の、どこが「変」かというと・・・。
まあ文章なんてどこかに「変」が潜んでいて、それが面白かったり、それが騙しだったりするもの。
と、トーシロながら思っているのだが。

そもそも文章を書くということは、何かを仕掛けることなので、読む人が「変」と思えば「変」。
「変」じゃないと思えば、「変」じゃない。
「変」とか「変」じゃないとかよりも、その仕掛けを解き明かすこと。
それが、文章を読む楽しさだと、トーシロながら思っている。

それはそうなのだが、一旦湧き上がった「変」という思いは捨てきれない。
ということで、この文章のどこが「変」かと言うと、「問わず語り」という言葉が「変」。

この「問わず語り」という言い回し。
誰が誰に対して問わないのか。
誰が誰に対して語るのか。
私には、どーもこのあたりがピンとこないのである。

というのは、「問わず」と「語り」の連続した動作の主は、同一人物でなければならないという漠然とした思いが、私にはあるからである。

たとえば、「やらずぼったくり」という慣用表現がある。
この「やらず」と「ぼったくり」の連続した動作の主は同一人物である。
そんな感じで「問わず語り」も同一人物の動作であると思っているのだ。

「問わず語り」や「やらずぼったくり」は「動詞+動詞」。
いわゆる「複合動詞」である。
そうであれば動作の主は同一でなければならない。

問わないのは「彼女」、語るのも「彼女」

「長い沈黙の後、彼女が問わず語りに言い出した話は、僕を身震いさせた。」
上記例文の登場人物は、「彼女」と「僕」。
この「問わず語り」における「彼女」と「僕」の関係はどうなのだろう。
いったい、「問わず」と「語り」の連続した動作の主は、どちらなのか。

それを「彼女」であると想定すると。
「彼女」が「僕」に何も問わずに、「彼女」が「僕」に何かを語り始めたということになる。

つまり「彼女」は、長い沈黙があったにもかかわらず、「僕」に対して何かしゃべってもいいですかと問うこともなく、勝手に何かを語りだした。
こういう「彼女」の、驚くほどの身勝手さが、「僕」を身震いさせた。

問わないのは「僕」、語るのは「彼女」

「変」では無いが、どこか「変」。
というのは、これは一般的ではないからだ。
良識ある世間は、そうではない。

一般に慣用表現には、世間に認められた意味がある。
長い年月を経て、人々が使い慣らしてきた意味があるから慣用表現なのである。

「問わず語り」には、相手に問われもしないのに自分から語り出すこと、という公に認められた意味がある。
上記例文でいうと「問わず語り」は、「僕」に問われもしないのに「彼女」が自分から語り出したということになる。
問わないのは、「問わず語り」を語る「彼女」ではない。
「僕」が「彼女」に何も問わずにいるのだ。

「問わず語り」は、この例文では「僕がそのことについて何も問わずにいるのに、彼女は自分からそのことについて語りだした」を省略した言い方とも思える。

行為か事柄か

ひょっとしたら「問わず語り」は、「問わず語り」という行為よりも「問わず語り」が暗に示している事柄にスポットライトを当てるための慣用表現なのかもしれない。

「長い沈黙の後、彼女が問わず語りに言い出した話は、僕を身震いさせた。」

「僕」は「彼女」に対して、ある事についてなかなか訊き出せないでいた。
それを訊くことが、「彼女」を傷つけることになるのではないかという心配が「僕」にあったからである。
そのため、長い沈黙が続いた。

その沈黙を破るように、「彼女」は「問わず語り」に、そのことについて話はじめた。
その話の内容は、「僕」の想像をはるかに越えるほど凄いものだったので、「僕」は驚きのあまり自身の身震いを隠すことができなかった。

というような事柄を上記例文から思い浮かべることができる。
これは「問わず語り」という慣用表現の持っている独特のイメージ力が、そういう事柄を思い浮かべるのに効力を発揮するからだろう。

問われず語り

本当は「問わず語り」ではなくて、「問われず語り」と言うべきかもしれない。
そうすれば、「問わず語り」にまつわる「変」な印象を拭い去ることができるのではないだろうか。
しかしどうして「問われず語り」と言わずに、「問わず語り」と言うのだろう。

「問われず語り」だったら、語呂的にまどろっこしいからか。
「問われず語り」だったら、いかにも間が抜けているふうにも感じられる。
「問われず語り」だったら、どことなく言い訳っぽい。

「問わず語り」とは、語りの聞き手である「僕」の印象を、この例文の作者が書いているである。
語り手である「彼女」は、これから「問わず語り」を行うぞという決意で話し始めるわけではない。
無意識のうちに語りだした結果、それが「問わず語り」になったということだ。
これが「問われず語り」だったら、「彼女」が問われないことに対して意識しつつ語り出したということになりはしないだろうか。

「問わず語り」は。こんな意図的でわざとらしいものであってはならない。
なぜなら、話し方を「問わず語り」だと決めるのは、語りの聞き手でなければならないと思っているからだ。

「問わず語り」という慣用表現には、その場の行きがかり上、気がついたら自分から話し始めていたというニュアンスがある。
まるで魔法にでもかけられたように、訊かれもしない身の上話を、物語を語るように話してしまう。
「問わず語り」は、そういう傾向を含んでいる。

動作の主は、やはり同一人物

話は戻るが、問わないのも語るのも「彼女」と想定すると、もうひとつ別の解釈がある。

「問わず」とは、尋ねないということではなく。
「相手が、話を聞ける状態かどうかを問題にすることもなく」という意味にもとれる。
「問わず」には、「相手を考慮しない」という微妙な意味合いが含まれているのではないだろうか。
「問わず」は、いわゆる「空気が読めない系な人(KYな人)」の行為。
そういうふうに考えれば「問わず語り」とは、結局「自分語り」ってことになる。

周りが見えていない人。
人の話を聞かない人。
気が利かない人。
自尊心が強い人。
こんな人が、聞くに耐えない「自分語り」を長々と実行する。

しかしこれでは、「問わず語り」のセンチメンタルな面が、突如として消えてしまう。
一般に「問わず語り」には、心中を明かすという切実なニュアンスがある。
「自分語り」では、そういうデリケートな面が無くなってしまう。
これでは「問わず語り」は表現として色を失ってしまう。

とはずがたり

と、ここまで空想の世界をさまよっていたら、古典の「とはずがたり」が頭に思い浮かんだ。
これは「とはずがたり」という告白形式で書かれた日記風読み物で、作者は後深草院二条という鎌倉時代中期の女性とされている。

現代人が使う「問わず語り」は、案外、この古典に端を発しているのではなかろうか。
この「日記文」の題名となっている「とはずがたり」は、「問わず」と「語り」の「動詞+動詞」の「複合動詞」では無い。
これらの動詞がつながって、名詞化されて出来たものなのではないだろうか。
「問わず語り」は「とはずがたり」という名詞なのである。

「複合動詞」では無いから、誰が誰に対して問わないのか、誰が誰に対して語るのかなんてことは、あまり関係がない。
鎌倉時代の王朝文芸の作者が「問わず語り」調で書いた物語の題名が、そのまま現代の慣用表現として使われているのではなかろうか。
「とはずがたり」が長い時代を生き延びて、現代の慣用表現としての「問わず語り」に乗移っている。

「問わず語り」とは、過去の物語を踏まえた表現なのだろう。
言葉は時代を超えて生きながらえる生き物。
現代を基準にして言葉を考えるから、ちょっと「変」という感想が生まれる。
日本の古典に触れることで、言葉の生き生きとした姿を見ることができるのかもしれない。
そう思った「問わず語り」巡りであった。

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