かつての大地主が暮らしていた古い大型住宅「楠美家住宅」を見物

駐車場に建っている看板。


国道7号線(バイパス)大釈迦西交差点から、国道101号線を通って五所川原市街へ向かう。
その途中に「狼野長根公園」がある。

公園入口よりちょっと手前の左側(南側)に「楠美家住宅」という看板が建っている。
看板に誘われて左手に目をやると、広い駐車場の奥に茅葺屋根の古い大型住宅が展示されている。

この大型住宅は、ここから南に四キロほど離れた高野(こうや)地区に建っていた建物を、保存と展示のために「狼野長根公園」に移築したもの。

駐車場は、乗用車60~70台は駐車可能な広さに見える。
駐車場に建っている「案内看板」には以下の事が記されてあった。

楠美家住宅

平成十二年十一月二日
五所川原市有形文化財(建造物)指定


「楠美家沿革」
 高野の楠美家は、板柳町狐森の楠美家五代長兵衛(ちょうべえ)の次男である藤三郎(とうさぶろう)が同地に分家し、初代となり、三代七郎右衛門(しちろうえもん)が高野へ移り住んだ。その後、四代から六代にかけて弘前藩の飯詰組代官所の手代、漆を植林する漆守(うるしもり)に任命されるなど村方役人を務めた旧家である。
 戦前は水田五十六町歩余を所有する大地主であり、戦後は製材業を営んでいた。衆議院議員を務めた楠美省吾(せいご)(1905~1980)は当家出身である。楠美家は、弘前藩士の楠美太素(たいそ)家とは同族である。

「建物概要」
主屋は、楠美家七代兵太郎(ひょうたろう)の代に秋田から木材を買い建設されたものであり、明治十九年(1886)五月二日棟上となっている。
 木造茅葺一部二階建、建築面積一四九.五坪(四九三.五二平方メートル)、一階床面積一二六.四坪(四一七.三五平方メートル)、二階床面積二七.三坪(九〇.一八平方メートル)、延べ床面積一五三.七坪(五〇七.五三平方メートル)であり、桁行十五.五間(二九.九〇五メートル)、梁間六.五間(一二.四一五メートル)、軒高二.八五間(五.二メートル)の外観・間取りともに建築当時の様子をよく残している。
 主屋の構えは左側にドマがある左勝手となっている。一階に大小十三部屋、二階に五部屋、計十八部屋がある。
 間取りは台所・常居(じょい)・座敷の三居室列で構成された喰い違い広間型で、座敷奥に仏間がある。台所の囲炉裏は四尺(一.二一メートル)×八尺(二.四二メートル)と大きく、台所裏側に女性使用人の部屋があり、土間上・台所上の一部二階は使用人の部屋で、小座敷上には隠し部屋がある。
 屋根は茅葺寄棟造り(かやぶきよせむねづくり)で箱棟には煙抜きの八方(はっぽう)がとりつけられ、小屋組に当地方では珍しい秋田様式の特徴が見られる。地盤面からの高さは八.五間(十五.五メートル)であり、津軽地方を代表する大型民家である。
 平成十八年(二〇〇六)五月、高野字北原二二二番地より移築。

            五所川原市教育委員会

(上記赤字部分案内看板記述より引用)


住宅前面(駐車場側)


「楠美家住宅」の開館時間は、午前九時から午後四時まで。
休館日は、冬期(十二月一日~三月三十一日)。
入館は無料とのこと。


重厚な外観。

住宅内の主な部屋には、その部屋の呼び名(津軽地方名)をカタカナで書いた小さな木製看板が置かれている。

そのなかには、津軽半島出身の私には懐かしい響きの単語がいくつかあった。
例えば、メンジャとかジョイとかトロジとか。
私が生まれ育った村では、メンジャはナガシ(流し台)のある台所のこと。
ジョイは居間のこと。
トロジは家の入口から最初の部屋に通じている土間のことであった。

私が子供の頃は、藁葺屋根や茅葺屋根の住宅は村にあふれていたが、「楠美家住宅」ほど巨大なものは見かけなかった。
当時の村の農家は、外観は大きくても家の中にマヤ(厩舎)がありシゴトバ(作業場)がありで、居住部分は外観の半分、もしくは三分の一程度だった。

それに比べると、「楠美家住宅」はザシキ(座敷)や和室が豊富で、居住空間がバラエティに富んでいる。
さすが豪農のお屋敷である。

高野地区は、五所川原に編入される前は七和村の高野地区であった。
現在の「楠美家住宅」が展示されている「狼野長根公園」も、旧七和村に属していた。
そして、七和村に編入される前の高野地区は、高野村というひとつの村であった。

昭和三年発行の「七和村誌」に「高野村」のページがある。
それによると当時(昭和三年頃)の戸数は、九十戸であったという。
九十戸のうち、士族がニ戸、平民が八十八戸と記されている。

「楠美家」は、この士族ニ戸のうちの一戸だったのだろう。
ひょっとしたら高野村いちばんの実力者だったのかもしれない。
楠美家七代兵太郎という方は、高野村の政治経済に多大な影響力を持った人物だったに違いない。
その人にしてこの大型住宅有りである。

なお、「七和村誌」によると、高野村の物産は米と雑穀。
その質は、中の下とある。
当時の津軽半島の多くの農村がそうであったように、高野村も肥えた土地ではなかったようである。
そのためかどうかはわからないが、「楠美家住宅」に豪邸というイメージは無い。

「楠美家住宅」の棟上げから遅れること十年。
明治二十九年に、当時の五所川原市内に出現した「布嘉(ぬのか)御殿」は建坪九百坪だったというから、「楠美家住宅」の一四九.五坪とは比較にならない。

この「布嘉御殿」を建てたのは、金木村出身の佐々木嘉太郎(かたろう)という方で、五所川原の呉服商から大地主となり、東北屈指の大富豪となった人物であるという。
明治時代の商業都市五所川原には、大変な方がいらっしゃったようで。

なお「布嘉御殿」は、太平洋戦争末期の昭和十九年に発生した五所川原市の大火で消失してしまったとのこと。

ところで、楠美家七代兵太郎が暮らしていた高野村は、近隣の七つの村と合併し、明治二十二年に七和村としてスタートする。
その七和村は昭和三十一年に五所川原市に編入されるのだが、まだ七和村であった昭和二十七年に「青森県七和高等学校」という高校をつくっていたという。
当時の七和村は、教育熱心な模範村であったらしい。

そういう土地柄であるためか、七和村は、青森県の政治・経済界で活躍した多くの人材を輩出したという。
その方達を讃える石碑が、「狼野長根公園」の頂上に建立されているというから、今度拝みに行かねばなるまい。

特色ある七和村の風土で育った方が、この「楠美家住宅」で暮らしていたのだ。
それにしても、津軽半島にもいろいろなドラマがあったのだ。
それはもう、面白さにおいて、他所のドラマに引けを取らない。
それをどんどん掘り起こしていけば、津軽半島がもっと面白くなることは間違い無い。


台所・食堂の板の間。使用人や外来者が食事をする場所。囲炉裏の長さは2.42メートル。


縁側(左)と納戸(右)。納戸は、主夫妻の寝室としても使われていたという。


仏間。意外と狭い。


手前がジョイと呼ばれていた居間。奥の左側が台所、右側が納戸。


ジョイ(居間)の囲炉裏。奥が板の間(台所・食堂)。


住宅の裏側と横側を見ている。


住宅横(正面の左手)。


住宅の裏。台所のあたり。


分厚い茅葺き。


住宅横(正面の右手)。


住宅の向こうに、残雪の岩木山が見える。


「七和村誌」の高野村のページ。(国立国会図書館デジタルコレクションサイトより)

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