新聞に載った5歳児の文章から私が憶測してしまったこと

愛犬の散歩で、近所の小学校のそばを通ったら、小学2~3年生ぐらいの小柄な男の子から、すれ違いざまに声をかけられた。

「へえ、おとなしそうな犬ですね。」

ずいぶん大人びた口調にびっくり。

愛犬が、すごくでかい(体重45kg)のに、ゆったりと歩いているから、彼はそう感じたのだろう。
もう年だから、ゆったりとしか歩けないのだ。

まだ離れた位置で、彼は私の愛犬を見つけ、「あんなでかい犬に吠えられたら嫌だなあ。」と思ったのかもしれない。

それが、何事もなかった。

ほっとした安堵感が、彼に口を開かせたのだろう。
世慣れた大人のような口ぶりは、彼の安堵の大きさを示しているのか。
などと考えながら家にもどった。

食卓で新聞を広げたら、「5歳児虐待 食事与えず」という社会面の記事の見出しが目に入った。
記事には、5歳児の子どもが大学ノートに書いたという文章も添えられている。

この文章の切なさは、5歳児がこんなにも切々とした文章を描いたということではない。

こういう文章を書けるようになるまで、5歳児が、繰り返し繰り返し執拗に「親のおしえ」を迫られたということではないだろうか。

新聞に掲載された「親にゆるしを請う文章」は、5歳の子どもの文章ではない。
「大人の理屈」を、小さな子どもの脳裏になんどもなんども刻印し続けた未熟な親の作文である。

おそらく保護責任者遺棄致死の容疑者である両親は、子どもらしい行動を一切禁じて、この幼稚な「大人の理屈」だけを、子どもに無理強いしたのだろう。

「こうあるべきだ」という「大人の理屈」を小さな子どもが実現しなかったとき、この容疑者の両親は、子どもに残虐な罰を与えたのではないだろうか。
そして、「ぜんぶじぶんがわるいこだから」という「反省の強要」を、小さい子どもに反復学習させて支配したのではないだろうか。

5歳児がこういう文章を書くようになるまで子どもを「教育」した親の残虐さ。

こういう接し方しかできない若い親の未熟さ。
感情の貧しさ。

その犠牲になった子どもを、どうしたら救えたのだろうか。
それは私なんかには想像もつかないこと。

子どもらしい自由な発想力や表現力を奪って、自らの幼稚な作文を子どもの手で書かせた親の「教育」。
5歳児の文章は、その企ての結果であると思う。

私は、5歳児が大学ノートに書いたというひらがなの文章を新聞で読んで、その文章の背後に広がる親の支配欲望を感じた。
それは、のびのびと自由には子どもを生かさないぞ、という支配意欲なのではないだろうか。

私は66歳の男であるが、そういう支配意欲には、この年になっても恐怖を感じる。
この私が書いた記事の内容に、被害者関係者の心情を害する内容があるとすれば、それはこの恐怖に因るものである。

この記事は、私の憶測をもとにして書いたものである。
憶測ではあるが、どなたにも非礼は無いと思っている。

あのような形で小さな子どもが亡くなられたことは、悲しいことであり、残念でならない。

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