世の人の見付けぬ花や軒の栗
【里山の栗の花】 |
この時期の青森市近辺の里山では、栗の花が満開である。
山沿いの道をクルマで走る。
すると、あちこちの山の麓で、白く細長い栗の花が風に揺れているのが見える。
すると、あちこちの山の麓で、白く細長い栗の花が風に揺れているのが見える。
夏の濃い緑に、白っぽい花はよく目立つ。
花が咲いて初めて栗の木の存在がわかる。
栗の木って、山にけっこうあるんだなあと思う。
里山の山桜もそうだし藤もそうだ。
花が咲くってことは、木々が、私達はここにいる!って叫んでいるようなもの。
「咲け」という言葉は「叫べ」と通じているんじゃないだろうか。
などと思ってしまう。
などと思ってしまう。
穂状の花をひらひらさせているので、栗の花は風媒花かと思ったら虫媒花だった。
「しまった!」
知ったかぶりして、栗の花って風媒花なんだぜと、ある人に教えてしまった。
「風媒花って、なに?」とその人は聞いた。
花粉が風で運ばれて受粉する花さ、風を媒体にするから風媒花。
「じゃ花粉症の原因は、風媒花のせいなんだ。」
「そ、そうなるね・・・」
世の人の見付けぬ花や軒の栗
松尾芭蕉
元禄ニ年四月の句。
「おくのほそ道」の旅の途上、須賀川で詠んだ句。
掲句の初案は、四月二十四日、可伸(栗斎)庵で行われた七吟歌仙の芭蕉の発句「隠れ家や目だたぬ花を軒の栗」である。
この句は、亭主である栗斎への挨拶句。
栗斎の脇句は「まれに蛍のとまる露草」。
「遁世して暮らす草庵にふさわしく、軒の栗が目立たないようにひっそりと花を咲かせているよ。」と芭蕉が詠う。
栗斎は、「訪れる人はめったに無いが、たまにホタルが草庵の草むらにやってくるよ。」と芭蕉の挨拶に応ずる。
時期になると栗の花は賑やかに咲くので、よく目立つ。
見ようとしなくても目に入ってくるのが栗の花である。
しかし栗斎の草庵の栗の木は、主人の遁世の心をよく知っているので、目立たないように咲いている。
芭蕉は、初めて訪れる栗斎の草庵に対して、そういう挨拶を述べた。
「おくのほそ道」に収められた改案の掲句には、以下のような前書きがついている。
『この宿(しゅく)のかたはらに、大きなる栗の木陰を頼(たの)みて、世をいとふ僧あり。橡(とち)拾ふ太山(みやま)もかくやと閒(しづ)かにおぼえられて、ものに書き付けはべる、その詞(ことば)、「栗という文字は、西の木と書きて、西方浄土に便りありと、行基菩薩の一生 杖にも柱にもこの木を用ゐたまふとかや。」 世の人の見付けぬ花や軒の栗』
『「おくのほそ道(全)」著:松尾芭蕉 武田友宏 角川ソフィア文庫より』
以下は、私の現代語訳。
「風媒花って、なに?」とその人は聞いた。
花粉が風で運ばれて受粉する花さ、風を媒体にするから風媒花。
「じゃ花粉症の原因は、風媒花のせいなんだ。」
「そ、そうなるね・・・」
世の人の見付けぬ花や軒の栗
松尾芭蕉
元禄ニ年四月の句。
「おくのほそ道」の旅の途上、須賀川で詠んだ句。
掲句の初案は、四月二十四日、可伸(栗斎)庵で行われた七吟歌仙の芭蕉の発句「隠れ家や目だたぬ花を軒の栗」である。
この句は、亭主である栗斎への挨拶句。
栗斎の脇句は「まれに蛍のとまる露草」。
「遁世して暮らす草庵にふさわしく、軒の栗が目立たないようにひっそりと花を咲かせているよ。」と芭蕉が詠う。
栗斎は、「訪れる人はめったに無いが、たまにホタルが草庵の草むらにやってくるよ。」と芭蕉の挨拶に応ずる。
時期になると栗の花は賑やかに咲くので、よく目立つ。
見ようとしなくても目に入ってくるのが栗の花である。
しかし栗斎の草庵の栗の木は、主人の遁世の心をよく知っているので、目立たないように咲いている。
芭蕉は、初めて訪れる栗斎の草庵に対して、そういう挨拶を述べた。
「おくのほそ道」に収められた改案の掲句には、以下のような前書きがついている。
『この宿(しゅく)のかたはらに、大きなる栗の木陰を頼(たの)みて、世をいとふ僧あり。橡(とち)拾ふ太山(みやま)もかくやと閒(しづ)かにおぼえられて、ものに書き付けはべる、その詞(ことば)、「栗という文字は、西の木と書きて、西方浄土に便りありと、行基菩薩の一生 杖にも柱にもこの木を用ゐたまふとかや。」 世の人の見付けぬ花や軒の栗』
『「おくのほそ道(全)」著:松尾芭蕉 武田友宏 角川ソフィア文庫より』
以下は、私の現代語訳。
『この宿場町のそばに、大きな栗の木の下を頼りに俗世を避けて暮らしている僧がいる。(西行法師)が「橡拾ふ」という歌を作って暮らした深山もこうであったろうと思うほどの静かさに、次のような詞を書き留めた。「栗の字は、西の木と書いて、西方の極楽浄土に縁故があるということで、行基菩薩が生涯、杖や柱としてこの木を用いたと聞く。」 世の人の見付けぬ花や軒の栗』
「世の人の見付けぬ花」とは、栗の花の外観のことと思われる。
桜や梅の花と比べれば、栗の花は花としては風変わりである。
異形とさえ言える。
大きな栗の木の、繁っている枝を軒のように利用している草庵。
その草庵で暮らしている遁世の僧は、栗の花同様に世間から見れば風変わりに見える。
世間の人は、この僧を見慣れない者と決めつけることであろう。
しかし、こういう人こそ生き方を見習うことにおいて、杖とも柱ともなり得る人なのだ。
こういう芭蕉の実感が伝わってくるような句であると私は感じた。
芭蕉はこの栗斎を自身の同志だと感じていたのではないだろうか。
『私もまた「世の人の見付けぬ花」なのだ。』と、芭蕉が叫んでいるような句である。