芦野公園に展示されている旧津軽森林鉄道の酒井C-19形5屯機関車
【酒井C-19形5屯機関車。】 |
芦野公園西側エリアの西端に建っている「五所川原市金木歴史民俗資料館」は休館中だった。
定休日による休館ではなくて、開館する予定は当分無いという休館状態。
「金木歴史民俗資料館」には、、芦野七夕野遺跡などの出土土器を展示する「考古資料展示室」があるということなので、楽しみにしていたのだが残念だった。
資料館の建物の前には、津軽森林鉄道で活躍していた機関車が展示されている。
津軽森林鉄道は、「日本の森林鉄道の歴史は、1909年(明治42年)12月20日に開通した津軽森林鉄道に始まる。」とウィキペディアにも記載されているように、日本で初めての森林鉄道である。
明治42年(1909年)12月20日に開通式が行われ、昭和42年(1967年)11月に津軽森林鉄道は58年の歴史に幕を閉じた。
その後も一部の支線の運行は続けられたが、昭和45年(1970年)にすべての支線が廃止されたという。
現在でも津軽半島の山間部各所に、その軌道跡を見ることができる。
上の写真は、運転席の後ろの窓から運転席の内部を撮ったもの。
運転席は、けっこう狭い。
軽四の乗用車の運転席よりもちょっと狭いぐらい。
座席がふたつあるので、この狭い空間で運転士と助手が操縦に関わっていたのだろう。
下の写真は、この機関車の説明看板。
真鍮の板に彫刻文字で製作されている。
重厚な歴史を感じさせる演出である。
インクジェットプリンターで出力したフィルムをアルミ複合板に貼り付ける安価な看板では、58年の歴史の重みは出ない。
以下の「赤文字部分」は、この看板の内容を書き写したものである。
わが国最初の森林鉄道
津軽半島を縦に走る中山山脈、そこに広がるヒバ林は、日本三大美林の一つに数えられ、最盛期ここから切り出される木材は質、量とも国内有数であった。中でも金木営林署は木材輸送及び集積の拠点として、県内最大の規模を誇り、それに伴い町も大いに栄えた。
この木材輸送手段として森林鉄道が計画され、金木(喜良市)、青森間67kmが明治39年着工から明治42年までの、わずか3年5か月で完成した。当時の土木技術とすれば驚異的記録であり、これを可能にしたのは、当時の鉄道院の協力により、東北・奥羽本線から優秀で経験豊富な技術者や労働者を多数得られたためであるとされている。そして、この区間は我が国の森林鉄道開通第一号であり、この地方の良質のヒバが、いかに重要であったかがうかがえる。開通当時は蒸気機関車であったが、後にガソリンエンジンに変わり、戦後はディーゼルエンジンとなる。
この車両は昭和42年森林鉄道廃止まで使用していたもので、その後旧金木小学校大東ヶ丘分校が教材として譲り受けたものをもとに、忠実に復元したものである。そして、これらは豊かさと文化をこの地に運んだシンボルとして、永く展示保存するものである。
諸 元
車名:酒井C-19形5屯機関車
製作:株式会社酒井工作所 昭和30年製作
形式:ボギー車
全長:3.54m
全幅:1.4m
重量:4.8t
エンジン:いすゞDA-120-501746 ディーゼルエンジン
排気量6.120cc 直型6気筒
最大出力125馬力/3200回転
動力伝達方式:トルクコンバーター/直結併用式
牽引力:50t
最高速度:20km/時
平均速度:15km/時
客車:総ヒバ造り、当時は地元の大工などによる手造りであった。主に山林労働者及び 要人輸送用であるが、終戦直後は金木~市浦間を客車として営業運行したこともある。
貨車:(名称 青森型SA木車)展示のように、丸太の前後2台で1組となり、これを8組連結した。
この展示されている機関車は、過去に実際に走っていたものを復元したものであるとのこと。
復元されたものでも、実物同様の存在感を持っていると私は感じた。
2009年まで、総ヒバ造りの客車も連結され展示されていたという。
その客車は、2009年9月9日に放火による火災のため全焼。
現代ではメルヘンチックな外観の客車を、もう見ることができない。
森林鉄道ができる前の木材の搬送方法は、積雪期の雪ぞりだったり、雪解け水で増水した川への放流だったという。
そういう脆弱だった搬送方法が、森林鉄道の完成とともに飛躍的に改善された。
そうして津軽半島の豊富で良質な木材が、効率よく青森市に集まったという。
津軽半島の森林鉄道軌道跡が、近代化遺産として尊ばれている所以である。
この津軽半島の林業に携わった津軽半島人の独自の文化もあったことだろう。
そういう「民俗」的なものも、「五所川原市金木歴史民俗資料館」に展示されていることだろうが、永続的な休館で見れなくて残念だった。
現在でも津軽半島の山間部各所に、その軌道跡を見ることができる。
【運転席。】 |
上の写真は、運転席の後ろの窓から運転席の内部を撮ったもの。
運転席は、けっこう狭い。
軽四の乗用車の運転席よりもちょっと狭いぐらい。
座席がふたつあるので、この狭い空間で運転士と助手が操縦に関わっていたのだろう。
【荷台と車輪。】 |
【材木を搭載した姿。】 |
真鍮の板に彫刻文字で製作されている。
重厚な歴史を感じさせる演出である。
インクジェットプリンターで出力したフィルムをアルミ複合板に貼り付ける安価な看板では、58年の歴史の重みは出ない。
以下の「赤文字部分」は、この看板の内容を書き写したものである。
わが国最初の森林鉄道
津軽半島を縦に走る中山山脈、そこに広がるヒバ林は、日本三大美林の一つに数えられ、最盛期ここから切り出される木材は質、量とも国内有数であった。中でも金木営林署は木材輸送及び集積の拠点として、県内最大の規模を誇り、それに伴い町も大いに栄えた。
この木材輸送手段として森林鉄道が計画され、金木(喜良市)、青森間67kmが明治39年着工から明治42年までの、わずか3年5か月で完成した。当時の土木技術とすれば驚異的記録であり、これを可能にしたのは、当時の鉄道院の協力により、東北・奥羽本線から優秀で経験豊富な技術者や労働者を多数得られたためであるとされている。そして、この区間は我が国の森林鉄道開通第一号であり、この地方の良質のヒバが、いかに重要であったかがうかがえる。開通当時は蒸気機関車であったが、後にガソリンエンジンに変わり、戦後はディーゼルエンジンとなる。
この車両は昭和42年森林鉄道廃止まで使用していたもので、その後旧金木小学校大東ヶ丘分校が教材として譲り受けたものをもとに、忠実に復元したものである。そして、これらは豊かさと文化をこの地に運んだシンボルとして、永く展示保存するものである。
諸 元
車名:酒井C-19形5屯機関車
製作:株式会社酒井工作所 昭和30年製作
形式:ボギー車
全長:3.54m
全幅:1.4m
重量:4.8t
エンジン:いすゞDA-120-501746 ディーゼルエンジン
排気量6.120cc 直型6気筒
最大出力125馬力/3200回転
動力伝達方式:トルクコンバーター/直結併用式
牽引力:50t
最高速度:20km/時
平均速度:15km/時
客車:総ヒバ造り、当時は地元の大工などによる手造りであった。主に山林労働者及び 要人輸送用であるが、終戦直後は金木~市浦間を客車として営業運行したこともある。
貨車:(名称 青森型SA木車)展示のように、丸太の前後2台で1組となり、これを8組連結した。
この展示されている機関車は、過去に実際に走っていたものを復元したものであるとのこと。
復元されたものでも、実物同様の存在感を持っていると私は感じた。
2009年まで、総ヒバ造りの客車も連結され展示されていたという。
その客車は、2009年9月9日に放火による火災のため全焼。
現代ではメルヘンチックな外観の客車を、もう見ることができない。
森林鉄道ができる前の木材の搬送方法は、積雪期の雪ぞりだったり、雪解け水で増水した川への放流だったという。
そういう脆弱だった搬送方法が、森林鉄道の完成とともに飛躍的に改善された。
そうして津軽半島の豊富で良質な木材が、効率よく青森市に集まったという。
津軽半島の森林鉄道軌道跡が、近代化遺産として尊ばれている所以である。
この津軽半島の林業に携わった津軽半島人の独自の文化もあったことだろう。
そういう「民俗」的なものも、「五所川原市金木歴史民俗資料館」に展示されていることだろうが、永続的な休館で見れなくて残念だった。
【説明が彫り込まれた真鍮製銘板。】 |