秣負う人を枝折の夏野哉

【与謝蕪村筆の「奥之細道・上巻」。国立国会図書館デジタルコレクションサイトより転載。】



「おくのほそ道」の旅で芭蕉一行(芭蕉と曾良)は、黒羽(くろばね:現栃木県大田原市)へ行く近道として広い那須野(なすの)を野越(のごえ)しようとする。

このとき野中で出会った草刈の男に、道案内などを頼み込むと「いかがすべきや。されどもこの野は縦横に分かれて、うひうひしき旅人の道踏みたがえん、あやしうはべれば、・・・【おくのほそ道(全)角川ソフィア文庫】」と男が言った。

「そう言われてもどうしたものか。しかし、この野は、道が複雑に分かれていて、慣れない旅人は、道を迷いかねない、それが気がかりである・・・」
そう言って、草刈の男は芭蕉に馬を貸してくれたという。

こうして芭蕉一行は黒羽の手前の「余瀬(よぜ)」に到着する。

(まぐさ)負う人を枝折(しおり)の夏野哉
松尾芭蕉

元禄二年四月の作。
句の前書きに「奈須余瀬、翆桃を訪ねて」とある。

「翆桃(すいとう)」は、下野国(しもつけのくに)芦野の領主で蕉門の門人。
掲句は、翆桃邸で巻かれた歌仙の、芭蕉の発句である。
【※歌仙とは、連歌・俳諧で、長句と短句を交互に三十六句連ねたもの。これを行なうことを「歌仙を巻く」という。】

「枝折」とは、山野で木の枝を折って、それを道の目印としたもの。
冬山を登る登山者が、帰りのルートを確保するために携行する赤布を巻いた棒や、木の枝に巻きつけるピンクテープの原形である。
現代の読書人が使う、本に挟む栞(しおり)は、この「枝折」が語源になっているという。

芭蕉が通った頃の「那須野(那須野ヶ原)」は、広大無辺な原野であったらしい。
日陰を作るような木も生えていない。
すくって飲めるような水場もない。
猛暑の夏場だったら遭難者が出るぐらいの広大な不毛地であったのだろう。

当時は作物も実らず。
収穫できるものといえば、牛馬の餌である「秣(まぐさ)」ぐらいであった。

そんな初夏の原野を芭蕉と曾良は進んだ。
初めての土地なので進むべき道がわからない。

途方に暮れていると、秣を背負った農夫が草の中から現れた。
芭蕉は考えた。
秣を背負っているということは、もう収穫が終わって村へ帰るに違いない。

枝折になるような木が一本もない原野。
だが、あの農夫が枝折なのだ。
農夫の通りに進めば人里へ到達できるはず。

そんなイメージを持った句である。
広大で牧歌的な、夏野の広がりを感じる句である。

「おくのほそ道」では、草苅の男の馬を借りて、その馬に乗って人里に至った。
掲句は「おくのほそ道」には載っていない。
「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」によると「曾良書留」に収集されている。

余瀬の翆桃邸で巻かれた歌仙の句を。曾良は書き留めていた。
掲句は、その歌仙の発句であるから、地元の連衆に対する挨拶句としての意味合いも大きい。
【※連衆(れんじゅ)とは連歌・連句の会席に出て詠み合う人々のこと。】
秣を人が背負うほどだから、この地では馬を大切にしている。
その大切な馬を私に貸してくれたおかげで私はここまで来ることができた。
私は馬に乗り、秣を背負った人が道案内をしてくれた。
この地の農夫の人情の厚さに感謝している。

というような意味合いの挨拶句であると、私は勝手に空想している。

脇句は亭主の翆桃。
「青き覆盆子(いちご)をこぼす椎の葉」
【※脇句とは、歌仙で発句の次に七・七と付ける第ニ句のこと。】

この脇句は、山で道に迷った若者が酸っぱい覆盆子を食べながら家にもどったという中国の伝説を踏まえているように思えるが、はたしてどうなのか・・・


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