宗因の諧謔「ながむとて花にもいたし頸の骨」

前回の記事で西山宗因のことについてちょっと触れた。
宗因は、延宝期(1670年代)を中心に流行した宗因風(談林俳諧)の創始者。
しかし、宗因風の言語遊戯性(げんごゆうぎせい)や滑稽諧謔(こっけいかいぎゃく)の作風が次第にマンネリ化して、宗因の死を契機に宗因風俳諧は衰退したとされている。

では、その宗因風の言語遊戯性や滑稽諧謔とはいかなるものであったか。
以下は、宗因作の有名な句である。

ながむとて花にもいたし頸(くび)の骨
西山宗因

この句は一幽という俳号で、万治元年刊の「牛飼」(燕石撰)や、寛文六年刊の「俳諧独吟集」(重徳撰)に収められている。【「貞門俳諧の諸問題」(中村俊定)より】

美しい桜の花を、よく見ようと思って眺めていたら首の骨が痛くなったというイメージの句である。
桜の花を愛でるという風雅と、首を傾けて上を見続けた結果首を痛めてしまった滑稽さの取り合わせが軽妙なユーモア(諧謔)を生んでいる。
落語のネタにでもなりそうな皮肉な句であるが、この句にはパロディ(言語遊戯性)も備わっている。

西行に「眺むとて花にもいたく馴れぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」という歌がある。
新古今和歌集に収録された歌である。
「ただ眺めているだけと思っても、眺めているあいだにも桜の花に非常に慣れ親しんだので、今となっては花が散って花と別れることが悲しいことになってしまった」というイメージの歌である。

西山宗因はこの西行の歌をもじって「散る別れこそ悲しかりけれ」という風雅な詠嘆を「いたし頸の骨」とまぬけな失態に変えてしまった。
西行の短歌の五・七の部分を借用し、「いたく(甚く)」という語を「いたし(痛し)」ともじったのである。

この西行の歌を知らない読者でも「ながむとて花にもいたし頸の骨」はけっこう笑える。
さらに、この句が西行の歌のパロディであると知っている読者は、笑いつつ、イメージの転換の巧みさに感心する。
「さすが宗因」とうなずく。
これが宗因風(談林俳諧)の真骨頂であるとされている。

延宝期に全盛を誇ったとされる宗因風(談林俳諧)に芭蕉(当時は桃青)は心酔したという。(芭蕉年譜大成による)

【桃青もまた宗因との一座を機にこれに心酔し、その波に乗って活発な俳諧活動を展開する。延宝三年頃からは門人もでき、「坐興庵」を称して点者生活に入り、次第に一門の勢力も増して、延宝末年には江戸中屈指の俳諧点者に数えられるに至る。】「芭蕉年譜大成:著 今榮蔵」より引用

芭蕉は延宝期に、宗因風のレトリックの習熟に努めたと思われる。
ただ、時を経るに従って、心は別の方を向くようになったのであろう。
芭蕉の高弟である向井去来の「去来抄」には、芭蕉の言として「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」と記されているという。

宗因の俳諧から学ぶことが多かったので今の蕉風があると、芭蕉は言っている。
「中興開山」とは、いったん衰えたものを再び盛んにし、新たな作風を切り開いた人物という意味かと思われる。

「貞徳」とは、松永貞徳(まつなが ていとく)のこと。
松永貞徳は「貞門俳諧・貞門派」の祖と呼ばれ、宗因風(談林俳諧)が台頭するまで、その作風が流行したという。
「貞門俳諧」の流行で、俳諧は庶民の文学として普及し、江戸時代の庶民の知的啓蒙に役立ったとされている。

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