芭蕉の縄文的発想「猪もともに吹かるゝ野分かな」

幻住庵記

元禄三年四月六日から七月二十三日まで、芭蕉は大津にある国分山の幻住庵に滞在した。そのとき、俳文「幻住庵記」を書いている。

「幻住庵記」は何度も改稿が試みられ、八月中旬にようやく最終稿が完成。
最終調整の後、蕉門の発句・連句集である「猿蓑」にて公表された。
その「幻住庵記」に猪(イノシシ)についての記載がある。

「昼は稀々(まれまれ)とぶらふ人々に心を動かし、あるは宮守(みやもり)の翁(おきな)、里のをのこども入り来たりて、ゐのししの稲くひあらし、兎の豆畑にかよふなど、我(わが)聞きしらぬ農談、」(「芭蕉年譜大成」より「幻住庵記」の一部を引用)

「日中はごくまれに訪ねてくる人たちに興味をおぼえた。あるときは、神社の番をしているご老人がみえた。あるときは、村里の男たちが訪ねてきた。イノシシが稲を食い荒らしたり、兎が豆畑にやってくるなど、私が聞いたことのない農業の話を(していく)」

芭蕉は琵琶湖の南側にある幻住庵で三ヶ月半の閉居生活をおくったが、たまに訪れる地元の人達と雑談を交わすこともあったようである。
その話のなかで、稲を食い荒らしたというイノシシの話に興味をおぼえたのだろう。

猪の句

この「幻住庵記」の最終稿は、芭蕉が幻住庵を引き払って大津滞在中(義仲寺?)に完成。
そのころ、琵琶湖西岸にある堅田本福寺の住職三上千那(みかみ せんな)に書簡をおくっている。
その書簡にイノシシを詠んだ下記の句を添えている。

(いのしし)もともに吹かるゝ野分(のわき)かな
松尾芭蕉

元禄三年八月四日の作と「芭蕉年譜大成」にある。
この句は「幻住庵記」にあるようなイノシシの「食害」の句ではない。
この句の感想を述べる前に、野生動物の「食害」についてちょっと書いておこう。

山村部におけるイノシシやツキノワグマ、カモシカやサルの「食害」は現代でもよく聞く話。
「幻住庵記」には、里の男たちの話として、イノシシやノウサギの「食害」のことも書かれている。
これを読めば、野生動物の「食害」が江戸時代からあったことがうかがわれる。
でもそれは、江戸時代どころか、もっと以前からあったと考えられる。
農耕文化が始まった弥生時代から野生動物の「食害」はあったと思われる。

野生動物の「食害」は弥生時代から

話はちょっとそれるが、以前読んだ『「森の思想」が人類を救う』という梅原猛氏の講演集に「環境破壊」について述べておられる箇所があった。
この本のなかで梅原氏は、「環境破壊」の危機について、「人類が農耕牧畜文明を発明し、都市文明を形成して以来、人類の文明が潜在的にはらんできた危機です。」と書いている。

日本では、「縄文時代」と呼ばれている頃は、狩猟(漁撈)採集文化だった。
森の中の植物を採集し、獣や魚を捕獲。
それらを食料にして暮らしていた。
縄文文化は、あるがままの自然を利用して人の暮らしを成り立たせてきた文化だと言われている。

やがて、稲作技術をもった人々が日本にやってきて、平野部の森を開墾し、水田や畑を作った。
現代で「弥生時代」と呼ばれている農耕文化の到来した時期である。

弥生人たちは、縄文人たちがやらなかったことをした。
それは、縄文人たちが神のいる場所として崇めた森を、農作地を作るために破壊したこと。
この農耕文明を基盤にしてできあがった都市文明が、森林破壊をいっそう進めることになったと梅原氏は述べておられる。
その頃から、森のイノシシやノウサギは、田や畑作地に新しい餌場を求めるようになったのだ。

縄文人の自然観

縄文人たちは、森のなかから必要なものだけを頂いて暮らしていた。
それは、自然との共生を目指した暮らし方だと言える。
イノシシやノウサギを捕獲しても、自分たちの食料にする以上の殺戮は行わなかったに違いない。
資源の枯渇に注意を払いつつ自然のもとで生きたのである。
であるから、田畑のない縄文時代には「食害」は存在しなかった。

芭蕉が暮らしていた幻住庵にやってきた人たちは、農家の男たちである。
田畑から収穫をあげることが生活の支えになっている人たちである。
イノシシやノウサギの「食害」は、さぞ頭痛の種であったことだろう。

一方芭蕉は、自然を愛する漂泊詩人であるから、イノシシやノウサギの食害は我聞きしらぬ農談」となる。
だが、まったく無関心ではない。
農民にとっては害獣であるイノシシにたいして、芭蕉は別の想像力を働かせた。
台風(野分)という自然災害に対しては、イノシシも人間もともに被害を受ける存在であるという発想。

芭蕉の縄文的発想

強大な自然の力にたいしては、縄文人と同じように人間は自然の力を神と崇める。
そして、自然の神の前では、野生動物と人間は共存状態にある。
と芭蕉が思ったかどうかは定かではないが・・・

ただ、森の恵みや海の幸を求める旅を続けながら暮らしていた縄文人と、俳諧の新境地を求めながら旅を続けている芭蕉には共通するものがあったのではないだろうか。
大津の農民の、弥生人のような定住性にたいして、縄文人のような芭蕉の流動性。
言ってみれば芭蕉は、縄文人の「DNA」が濃かったのかもしれない。

だから縄文人のように、野分にイノシシとともに吹かれるという発想ができたのではないだろうか。
掲句は、芭蕉の「縄文思想」を詠ったものなのではという風に私は想像をしている。
農耕文明のなかでは、「猪もともに吹かるゝ野分かな」などという有様は考えにくい。

森や田畑を暴風が吹き飛ばし、人家の近くに出没する害獣のイノシシをも一緒に吹き飛ばしたことだろうなあという芭蕉の感慨も感じられるのだが。
「野分」にイノシシが登場するのは唐突である。
森の恩恵を受け、森と共生している生き方への共鳴があるからこそ「猪もともに吹かるゝ」という芭蕉の縄文的自然観が表現されているように思えるのだ。

なお掲句は、九月六日の曲水(在江戸)宛書簡では、「猪のししのともに吹かるる野分哉」と改案されている。


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