2018/12/09

支考の雑談のような句「いま一俵買おうか春の雪」 

「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか(著 大輪靖宏)」に「芭蕉を受け継ぐ弟子たち」というタイトルで、主だった門人の紹介文が記されている。
その中に短いが、各務支考の紹介文もある。

「各務支考(かがみ しこう)(1665~1731)は芭蕉没後、美濃派を起こして蕉風の普及に努めた人で、著書も多い。」(「なぜ芭蕉は至高の俳人なのか」より引用)

芭蕉は1644年生まれだから、1665年生まれの支考は芭蕉より二十一歳若いことになる。
この芭蕉と支考の関係が面白い。

芭蕉と支考がどのようにして知り合ったのか。
いつごろ支考は蕉門に加わったのか。
私には、それを明らかにする術はない。


芭蕉と行動した支考の記録

ただ「芭蕉年譜大成(著 今榮蔵)」から、芭蕉と支考の接点を探るしかない。
下記に、「芭蕉年譜大成」を参照して、芭蕉とともに行動した支考の記録をまとめてみた。
(緑色)は、私の独り言。

●【元禄三年冬】芭蕉が京都滞在中に六吟歌仙を興行。
「連衆」の中に支考の名がある。
「芭蕉年譜大成」では、これが「連衆」としての支考の初登場。
(おそらく支考の蕉門入門はこの年と思われる。)
この六吟歌仙に、中村文邦や向井去来も参加している。
(※「連衆」とは、連歌や連句を共同制作するために集まるメンバーのこと。)

●【元禄四年八月十四日】大津で待宵の会。支考も同席。

●【同年年八月十五日】木曾塚草庵(無名庵)で月見の会。
支考も同席。

●【同年八月中旬】膳所連衆による八吟歌仙。
「連衆」として盤子(支考)の名がある。

●【同年八月十八日】支考らと石山寺詣で。
同日、瀬田川で舟遊び。

●【同年九月三日】膳所連衆による十二吟歌仙。
「連衆」に盤子(支考)の名がある。

●【同年十月中旬】江戸に向かっている芭蕉・桃隣主従に、遅れて発った支考が熱田で合流。
熱田滞在中、梅人亭で催された九吟一巡興行の「連衆」に支考の名がある。

●【同年十月中下旬】三河新城(しんしろ)で十二吟歌仙。
「連衆」に支考の名がある。
別席での十二吟歌仙にも支考は参加している。

●【同年十一月】江戸の山口素堂亭での忘年句会に支考も参席。
(これまでの行動記録から、支考は江戸まで芭蕉に同行していたと推測される。)

●【元禄五年一月二十三日】水田正秀宛書簡に、「爰元(ここもと)盤子・桃隣一所に越年(えつねん)」とある。
(芭蕉の江戸帰着に同行した支考は、そのまま芭蕉とともに江戸日本橋彦右衛門方に滞在したようである。)

●【同年一月下旬】支考と両吟歌仙を巻く、とある。

●【同年年二月八日】芭蕉は近藤左吉(呂丸)宛て書簡で、奥州行脚に赴く支考を呂丸に紹介。
(芭蕉の親心かな。)
「風雅も少し相(あい)心得候」(と支考を評価している。)
(※呂丸は、山形羽黒山麓の手向村在住の染物屋。)

●【同年二月十日】支考奥州行脚の餞別句会。
芭蕉・其角その他十一人同席とある。

●【同年五月七日】去来へ書簡を執筆。
(その手紙の最後に、支考の「行状」について触れている。)

●【同年六月中下旬】支考、奥羽行脚を終えて江戸帰着。
第三次芭蕉庵を訪問。

去来宛て書簡に支考の「悪口?」

下記が、元禄五年五月七日に、芭蕉が京都の向井去来(むかい きょらい)に宛てた書簡の支考に関する部分である。
その長い書簡の最後の方で、芭蕉は支考の「行状」に対する「苦情?」を述べている。

「盤子は二月初めに奥州へ下り候。いまだ帰り申さず候。こいつは役に立つやつにて御座なく候。其角を初め連衆皆々悪(にく)み立て候へば、是非なく候。尤も投げ節(ぶし)何(なん)とやらをどりなどで、酒さへ呑めば馬鹿尽くし候へば、愚庵気をつめ候事なりがたく候。定めて帰り候はば上(のぼ)り申すべく、其元(そこもと)へ尋ね候も御覚悟に成さるべくと存じ候故、内語(ないご)此(かく)の如くに御座候。史邦へもひそかに御伝へ、沙汰なき様(やう)に御覚悟成さるべく候。」『「芭蕉年譜大成(著 今榮蔵)」より引用)

「盤子(ばんし)」は支考の別号。
「投げ節」は、当時遊里を中心に広まった流行歌。
「其角」は、江戸蕉風俳諧の門人である宝井其角(たからい きかく)のこと。
「史邦」は、尾張の蕉風俳諧の門人である中村史邦(なかむら ふみくに)のこと。

この手紙の文を、私なりに現代語にしたものが下記である。

「支考は、二月の初めに奥州へ旅に出ましたが、まだ帰っておりません。こいつは、役立たずであります。其角をはじめ江戸の門人仲間が嫌っているのは無理からぬ事であります。とりわけ投げ節なんとか踊りなどで、酒でも飲めば馬鹿の限りを行っているので、私の住まいでも(私に)気を使うことも致しません。きっと江戸に帰ってくれば、京都へ上がって、あなた(去来)のところへ訪ねていくでしょうから、あらかじめ心構えをしておくべきと思っております。そういうわけで、心の中での話でございます。史邦へもこっそりとお知らせして、問題が起こらないようにあらかじめ心構えをしておくべきでしょう。」

このとき芭蕉は、老年にさしかかった四十九歳。
支考は、青年を終えて中年になりつつある二十八歳。
芭蕉からみれば支考は、息子のような年頃である。

支考は奥州の旅に出てから三ヶ月の間、手紙ひとつよこさない。
芭蕉は、支考が連絡してこないのに腹を立てているようだ。
呂丸宛の紹介状を持たせたのだから、支考は旅の様子を逐一報告すべきだと芭蕉は苛立っているのだ。

芭蕉のユーモア

そして、江戸での支考の「行状」をユーモラスに去来に伝えている。
この手紙は、芭蕉が支考のことをかばっているような文面であると私は思っている。
支考はこういう仕方のない奴だから、そちらを訪ねるようなことがあっても気を悪くしないようにと去来に忠告しているのだ。

「芭蕉年譜大成」の記録によれば、去来と史邦は元禄三年冬の六吟歌仙で支考と出会っている。
そのとき去来は、14歳年下の支考の人となりを見取っていたのではあるまいか。

また其角は、支考の奥州行脚の餞別句会に参加している。
いくらか旅費もカンパしたことだろう。
この餞別句会に十一人も同席したのだから、支考が江戸で嫌われ者だったとは考えにくい。

この去来宛書簡は、かなりの長文である。
最後に芭蕉は、支考のことを冗談交じりに書き添えて、去来を「うふふ」と笑わせたかったのではあるまいか。

雑談のような句

さて、前置きが長くなってしまった。
そういう支考の句のなかで、私が好きな句をひとつ。

いま一俵買おうか春の雪
各務支考

冬が終わって春になりはじめたが、なごり雪が降ったりしてまだ寒い日が続いている。
そんな頃の炭屋の前で、長屋住まいの町人が、もう一俵炭を買おうかどうか客同士で雑談を交わしている様子が思い浮かぶ。

そんな様子が思い浮かぶのは、この句に物語的なものが潜んでいるからではあるまいか。
ひょっとしたらこの句は、「歌仙(俳諧の連歌)」の中の一句かもしれない。
座の文芸である歌仙は、「連衆」が、前の句のイメージをもとにそれぞれの「場面」を描き、それが連なって一つの世界が紡ぎ出される。

支考が描き出した「場面」は、ありふれた庶民の姿である。
表現も井戸端会議の雑談のようで、くだけていてわかりやすい。
であるから私達は、この句にまだ寒い春を実感することができる。

空虚と実体

冬から春先にかけて、三寒四温と言い表されているように、寒暖が繰り返される。
冬でもなく春でもないような気候。
ところで冬や春は、川とか土とか雪とかのような実体を伴った言葉ではない。
季節という、空気のような実体を伴わない言葉である。
それは、空虚といえば空虚。

その空虚さを、様々な実体が発するイメージで描くのが俳諧の一面ではないだろうか。
支考のこの句は「一俵」や「買おうか」や「雪」で、「場面」を肉厚にして、春の物語を醸し出している。

「芭蕉の風雅(著 長谷川櫂)」に支考が書きとめた芭蕉の言葉として次の文が引用されている。
「風狂は其言語をいへり。言語は虚に居て実をおこなふべし。実に居て虚にあそぶ事は難(かた)し。」(支考「陳情の表」)

これは俳諧師が身をおくべき場のことを言っているのではないだろうか。
花鳥風月という、ある意味空虚な季節感のなかに立って、そこから実体のあるものを句の言葉として用いる。
逆に、現実に居座って、花鳥風月の空虚な世界をイメージすることは難しい。
俳諧師は常に空虚ななかに居なければならない。
と芭蕉(支考も)は言っているのではあるまいか。

春という不確かであいまいな時間のなかに居て、「一俵」とか「買おう」とか「雪」とかの実体のある言葉で、支考は「いま一俵買おうか春の雪」という物語をつくっているのだろう。

芭蕉の遺書を代筆

芭蕉は元禄七年十月十二日申の刻に没する。
十月十日の遺書(遺状その二)には、「支考此度(たび)前後の働き驚き、深切(しんせつ)実を尽くされ候。此段(このだん)頼み存じ候。庵の仏は則ち出家の事に候へば遣わし候。」と書かれている。

芭蕉の遺書を代筆したのは、「此段(このだん)頼み存じ候」とこの遺書にある通り支考である。
芭蕉にとって支考は、気の利かない無礼なやつだったが、「風雅も少し相心得」て、充分役に立つやつだったのである。

そして芭蕉は、支考に対する感謝の言葉を支考に書かせた。
死に瀕していて、芭蕉は支考にニヤリと笑いかけたのであろうか。
支考も芭蕉に「ニヤリ」と笑い返したに違いない。
そんな師弟関係を、私は想像している。