コリをほぐす超強力流水風呂
5年ぐらい前の話である。
私がよく行っていた銭湯が改装オープンしたときのこと。
どんなふうに改装したのかなと興味津々で行ってみると、浴場のタイルを貼り替えたりカランを最新式のものに替えたりで、いろいろとリニューアルしていた。
そのなかで特に目を引いたのが、「コリをほぐす超強力流水風呂」の出現であった。
いままでは「多連式マッサージ・ジェットバス」だけだったが、ジェットバス系がひとつ増えたのだ。
それが、「コリをほぐす超強力流水風呂」。
浴槽の壁には、「危険ですので中学生以下のご入浴は禁止します」という注意書きのプレートが貼られてあった。
私はその「禁止します」という随分な言葉に違和感を覚えたのだった。
「浴室内での喫煙はご遠慮下さい」とか「刺青をしている方のご入浴はお断り申し上げます」とかが一般的ではあるまいか。
いきなり「ご入浴は禁止します」とくるかね、普通。
しかも「危険ですので」ときたもんだ。
私は、かなり「中学生以上」の年齢である。
なので、その危険の程度を知るべく「コリをほぐす超強力流水風呂」を体験することにした。
そのときは、実際のところ肩こりが酷かったのだ。
奥行き1メートルぐらい、幅4メートルぐらいの細長い浴槽の端に、「コリをほぐす超強力流水風呂」の発生装置らしき機械が、細いステンレスパイプの格子に覆われて設置されていた。
装置とは反対側の浴槽の端にステンレス製の手すり付き階段が四段、浴槽の底に延びている。
浴槽に入ると、かなりの深さである。
身長167センチの私の腰上ぐらいの深さ。
水深90センチぐらいはある。
浴槽にはややぬる目のお湯が張ってあった。
その湯の中を歩いて装置に近づく。
ステンレスパイプ格子の奥には、ステンレス製の網で出来た四角い箱が設置され、箱の中に漁船のスクリュウのようなものが見えた。
装置の両側の壁にはステンレス製のパイプ手すりが備えられている。
ちょっとかがんで装置に背を向け、その手すりを握って体を支えると、右手の届く位置にボタンスイッチがふたつあった。
壁に設置された上下のボタンで、上のボタンには「止」の字、下のボタンには「オン」の字が刻まれている。
これは、おかしい。
「止」ときたら「動」のはず。
「オン」ときたら「オフ」でしょう。
しかも「オン」は英文字で「ON」と書くべきでしょう。
「これは、素人の手作りくさい」と私は思ったが、好奇の指がすでに「オン」を押していた。
「グイングオン」という装置の始動音とともに、水面が波立ち始めた。
「グゴゴゴゴー!」
徐々にスクリュウの回転が高速になっていくとともに波の高さが増し、その波に水中からの泡沫が激しく混入している。
と同時に、私の背中に大きな水圧がかかった。
手すりを握りしめていないと、私は水圧に押されて、流水に押し流されそうだった。
その装置はまるで「筋トレマシン」。
私はそう感じつつ、しばらくは筋トレを楽しんだのだが、この私には腕にかかる負荷が大き過ぎる。
そこで、右手を手すりから離すとすばやく「止」のボタンを押した。
右手の支えを失った私の身体は左側に回りかけたが、すぐに安定した。
泡沫が消えて、装置がピタリと静止したのだ。
すごい力だった。
私の両腕は、筋肉痛になりそうだった。
これでは、中学生以上でも腕力のないものには危険である。
きっと銭湯の経営者のオヤジが、物好きにも素人手作りで、こんな程度の過ぎる装置を設置してしまったのだ。
まったく警察がよく許可したもんだ。
もっとも管轄は市の保健所なのだが・・・・・・
それからも私はちょくちょくこの銭湯に通ったが、「コリをほぐす超強力流水風呂」には近づかなかった。
私がこの銭湯を訪れていたときは、「コリをほぐす超強力流水風呂」を利用しているお客さんを見かけることはなかった。
「コリをほぐす超強力流水風呂」の水面は、ずうっと静まり返っていたのだ。
あの日までは。
私は今でもあの日の光景をよく覚えている。
ガランとした銭湯の浴場。
射し込む夕陽。
波間に見え隠れする少年の青ざめた顔。
それは残暑が厳しい9月の終わり頃のことだった。
私は仕事を早めに切り上げ、汗だくになった身体をお湯で洗い流そうと銭湯に立ち寄った。
いつもより早い時刻に入ったその日は、銭湯はめずらしく空いていた。
脱衣場には、長椅子に寝そべっている老人がひとりいるだけだった。
浴場内は、小学生の少年と、浴場のタイルの床の上で口をあけて寝そべっている老人がひとり。
私は「多連式マッサージ・ジェットバス」にゆっくりとつかり、一日の疲れをもみほぐした。
それからカランに向かって粘っこい汗を洗い落とした。
鏡には、すっかり年老いた男の顔が映っている。
まあ、私の顔なんだけどね。
浴場の窓から西陽が射し込んで、床の一画を照らしている。
西陽の光を避けようと、寝転んでいる老人がタイルの上で痩せた身体をずらしている。
静まり返った黄昏のひとときだった。
私が髭を剃ろうとカミソリを頬にあてたとき、背後で「グイングオン」という音がした。
それは久しぶりに聞く「コリをほぐす超強力流水風呂」の装置の始動音だった。
私は手を止めて、「コリをほぐす超強力流水風呂」の方を振り返った。
「グゴゴゴゴー!」と轟音をたてて、細長い浴槽は激流のように波打っていた。
波のために水面が盛り上がり、浴槽からあふれたお湯が、寝そべっている老人の方へ流れている。
装置の前には誰もいなかった。
目を装置の反対側の方へ移すと、あの小学生の少年が激流に押さえ込まれてステンレスの階段に貼り付け状態になっていた。
少年の頭が波の合間に見え隠れし、頭が水流に水没するたびに髪の毛が海藻のように波に揺らいでいる。
波の合間に見えた少年の口元が、波に抗うように動いている。
私は立ち上がって激流状態の「コリをほぐす超強力流水風呂」に近づいた。
少年の口からは、「トメテトメテ」というか細い声が聞こえた。
これはなんという光景だろう。
おだやかな夕暮れのひととき、銭湯の浴場の一画で溺れかけている少年。
そんなことにも気がつかずに、タイルの上で眠りこけている老人。
少年は日常の深みにはまってしまったのだ。
ちょっとした少年の好奇心が、彼の死を招いているのだ。
私はこの光景を静かに見下ろしていた。
遠い世界からのように「トメテトメテ」という声が聞こえる。
それはまるで老婆が唄う御詠歌のようだった。
「みなかみは いづくなるらん いわまでら きしうつなみは まつかぜのおと」
私がよく行っていた銭湯が改装オープンしたときのこと。
どんなふうに改装したのかなと興味津々で行ってみると、浴場のタイルを貼り替えたりカランを最新式のものに替えたりで、いろいろとリニューアルしていた。
そのなかで特に目を引いたのが、「コリをほぐす超強力流水風呂」の出現であった。
いままでは「多連式マッサージ・ジェットバス」だけだったが、ジェットバス系がひとつ増えたのだ。
それが、「コリをほぐす超強力流水風呂」。
浴槽の壁には、「危険ですので中学生以下のご入浴は禁止します」という注意書きのプレートが貼られてあった。
私はその「禁止します」という随分な言葉に違和感を覚えたのだった。
「浴室内での喫煙はご遠慮下さい」とか「刺青をしている方のご入浴はお断り申し上げます」とかが一般的ではあるまいか。
いきなり「ご入浴は禁止します」とくるかね、普通。
しかも「危険ですので」ときたもんだ。
私は、かなり「中学生以上」の年齢である。
なので、その危険の程度を知るべく「コリをほぐす超強力流水風呂」を体験することにした。
そのときは、実際のところ肩こりが酷かったのだ。
奥行き1メートルぐらい、幅4メートルぐらいの細長い浴槽の端に、「コリをほぐす超強力流水風呂」の発生装置らしき機械が、細いステンレスパイプの格子に覆われて設置されていた。
装置とは反対側の浴槽の端にステンレス製の手すり付き階段が四段、浴槽の底に延びている。
浴槽に入ると、かなりの深さである。
身長167センチの私の腰上ぐらいの深さ。
水深90センチぐらいはある。
浴槽にはややぬる目のお湯が張ってあった。
その湯の中を歩いて装置に近づく。
ステンレスパイプ格子の奥には、ステンレス製の網で出来た四角い箱が設置され、箱の中に漁船のスクリュウのようなものが見えた。
装置の両側の壁にはステンレス製のパイプ手すりが備えられている。
ちょっとかがんで装置に背を向け、その手すりを握って体を支えると、右手の届く位置にボタンスイッチがふたつあった。
壁に設置された上下のボタンで、上のボタンには「止」の字、下のボタンには「オン」の字が刻まれている。
これは、おかしい。
「止」ときたら「動」のはず。
「オン」ときたら「オフ」でしょう。
しかも「オン」は英文字で「ON」と書くべきでしょう。
「これは、素人の手作りくさい」と私は思ったが、好奇の指がすでに「オン」を押していた。
「グイングオン」という装置の始動音とともに、水面が波立ち始めた。
「グゴゴゴゴー!」
徐々にスクリュウの回転が高速になっていくとともに波の高さが増し、その波に水中からの泡沫が激しく混入している。
と同時に、私の背中に大きな水圧がかかった。
手すりを握りしめていないと、私は水圧に押されて、流水に押し流されそうだった。
その装置はまるで「筋トレマシン」。
私はそう感じつつ、しばらくは筋トレを楽しんだのだが、この私には腕にかかる負荷が大き過ぎる。
そこで、右手を手すりから離すとすばやく「止」のボタンを押した。
右手の支えを失った私の身体は左側に回りかけたが、すぐに安定した。
泡沫が消えて、装置がピタリと静止したのだ。
すごい力だった。
私の両腕は、筋肉痛になりそうだった。
これでは、中学生以上でも腕力のないものには危険である。
きっと銭湯の経営者のオヤジが、物好きにも素人手作りで、こんな程度の過ぎる装置を設置してしまったのだ。
まったく警察がよく許可したもんだ。
もっとも管轄は市の保健所なのだが・・・・・・
それからも私はちょくちょくこの銭湯に通ったが、「コリをほぐす超強力流水風呂」には近づかなかった。
私がこの銭湯を訪れていたときは、「コリをほぐす超強力流水風呂」を利用しているお客さんを見かけることはなかった。
「コリをほぐす超強力流水風呂」の水面は、ずうっと静まり返っていたのだ。
あの日までは。
私は今でもあの日の光景をよく覚えている。
ガランとした銭湯の浴場。
射し込む夕陽。
波間に見え隠れする少年の青ざめた顔。
それは残暑が厳しい9月の終わり頃のことだった。
私は仕事を早めに切り上げ、汗だくになった身体をお湯で洗い流そうと銭湯に立ち寄った。
いつもより早い時刻に入ったその日は、銭湯はめずらしく空いていた。
脱衣場には、長椅子に寝そべっている老人がひとりいるだけだった。
浴場内は、小学生の少年と、浴場のタイルの床の上で口をあけて寝そべっている老人がひとり。
私は「多連式マッサージ・ジェットバス」にゆっくりとつかり、一日の疲れをもみほぐした。
それからカランに向かって粘っこい汗を洗い落とした。
鏡には、すっかり年老いた男の顔が映っている。
まあ、私の顔なんだけどね。
浴場の窓から西陽が射し込んで、床の一画を照らしている。
西陽の光を避けようと、寝転んでいる老人がタイルの上で痩せた身体をずらしている。
静まり返った黄昏のひとときだった。
私が髭を剃ろうとカミソリを頬にあてたとき、背後で「グイングオン」という音がした。
それは久しぶりに聞く「コリをほぐす超強力流水風呂」の装置の始動音だった。
私は手を止めて、「コリをほぐす超強力流水風呂」の方を振り返った。
「グゴゴゴゴー!」と轟音をたてて、細長い浴槽は激流のように波打っていた。
波のために水面が盛り上がり、浴槽からあふれたお湯が、寝そべっている老人の方へ流れている。
装置の前には誰もいなかった。
目を装置の反対側の方へ移すと、あの小学生の少年が激流に押さえ込まれてステンレスの階段に貼り付け状態になっていた。
少年の頭が波の合間に見え隠れし、頭が水流に水没するたびに髪の毛が海藻のように波に揺らいでいる。
波の合間に見えた少年の口元が、波に抗うように動いている。
私は立ち上がって激流状態の「コリをほぐす超強力流水風呂」に近づいた。
少年の口からは、「トメテトメテ」というか細い声が聞こえた。
これはなんという光景だろう。
おだやかな夕暮れのひととき、銭湯の浴場の一画で溺れかけている少年。
そんなことにも気がつかずに、タイルの上で眠りこけている老人。
少年は日常の深みにはまってしまったのだ。
ちょっとした少年の好奇心が、彼の死を招いているのだ。
私はこの光景を静かに見下ろしていた。
遠い世界からのように「トメテトメテ」という声が聞こえる。
それはまるで老婆が唄う御詠歌のようだった。
「みなかみは いづくなるらん いわまでら きしうつなみは まつかぜのおと」
いったいこの川の上流はどこにあるのでしょう。
そこへ行けば観音様に会える。
そこへ行けば観音様に会える。
この川岸をうつ波の音が風に揺れる松葉の音と唱和し、上流にいらっしゃる観音様の教えを広めているようだ。
少年の「トメテトメテ」というかすかな声が、見知らぬ川景色を幻出させていた。
私の背後で、老人が痰のからんだ喉を鳴らす「ゴロゴロ」という音が聞こえた。
その音で、私は現実にかえった。
老人の浮き出た肋骨のような赤裸々な現実。
私の背後で、老人が痰のからんだ喉を鳴らす「ゴロゴロ」という音が聞こえた。
その音で、私は現実にかえった。
老人の浮き出た肋骨のような赤裸々な現実。
私は、急いで装置の「止」ボタンを押し込んだ。
「シュン」という音がして、浴槽の水面はすぐに静水にもどった。
少年は、飲み込んだお湯を吐きながら、よろよろとステンレス製の階段をのぼっている。
目覚めた老人が「ヤメロ、バカーッ!」と訳のわからない奇声をあげながら起き上がった。
銭湯の従業員が、あわてて浴場のガラス戸を開ける。
平穏だった死の幻想が、騒然とした生の現実に入れ替わったのだった。
その後聞いた話だが、私が小学生だと思った少年は、小柄な中学生だったという。
あの「コリをほぐす超強力流水風呂」の装置は取り外され、今では細長い浴槽を老人が歩行浴しているという。
久しぶりに銭湯に入り、列をつくって歩行浴をしている老人たちを見かけたら、5年ぐらい前の光景を思い出してしまったので、ここに書きとめておくことにしたしだいである。
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「シュン」という音がして、浴槽の水面はすぐに静水にもどった。
少年は、飲み込んだお湯を吐きながら、よろよろとステンレス製の階段をのぼっている。
目覚めた老人が「ヤメロ、バカーッ!」と訳のわからない奇声をあげながら起き上がった。
銭湯の従業員が、あわてて浴場のガラス戸を開ける。
平穏だった死の幻想が、騒然とした生の現実に入れ替わったのだった。
その後聞いた話だが、私が小学生だと思った少年は、小柄な中学生だったという。
あの「コリをほぐす超強力流水風呂」の装置は取り外され、今では細長い浴槽を老人が歩行浴しているという。
久しぶりに銭湯に入り、列をつくって歩行浴をしている老人たちを見かけたら、5年ぐらい前の光景を思い出してしまったので、ここに書きとめておくことにしたしだいである。
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