ロバート・エイクマン短篇集「奥の部屋」を読んだ感想
ちくま文庫のロバート・エイクマン短編集 |
「悪夢小説」
去年の暮あたりから作家の名前とその作風の評判を知って、読みたいと思っていたのが、やっと実現した。
「奥の部屋/ロバート・エイクマン短篇集(ちくま文庫)訳:今本渉」をブックスモア青森中央店で探し当てた。
エイクマンの小説は、とりとめのない内容であるとか、何か起こりそうで何も起こらないとか、ストーリー自体わけがわからないとか、物語の終わり方が唐突であるとかの評判が多い。
おもにネットでの読後感想であるが。
エイクマンの小説は、世間一般では「怪奇小説」に分類されている。
読書を楽しんだ私は、「悪夢的な小説」という印象を持った。
悪夢であるから、とりとめのない世界であるし、わけのわからない事が起こるし、物語のオチはない。
悪夢は、悪夢に至る過程が精緻で、結末とその一歩手前が不明瞭な物語である。
もしかしたら、結末は存在しないのかもしれない。
人は突然に悪夢(幽霊とか怪物とか)と遭遇し、脈絡を追う間もなく唐突に目覚めてしまう。
ロバート・エイクマンの短編集は、そういう読物であると思った。
現実を描いた小説にたいする「わけわからな感」
小説を読んでいて、わけがわからなくなることは、私には多々ある。最近では、宮部みゆき氏の長編小説「理由」を読んで、わけがわからなくなった。
ドキュメンタリー調で文脈も確かな小説なのに、この「わけわからな感」はどういうことだろう。
その原因は、この小説は恐怖小説(ホラー)ではないだろうかという、私の印象である。
矢代裕司という青年が自分の同居人(偽装家族)3人を次々と刺殺してしまうという恐怖。
「占有屋」という現実に即した題材で、現実的な脈絡で描かれた小説なのに、私には怪奇的な恐怖小説という印象が拭い得ない。
物語の軸になっていると思われる殺人事件のホラー性が、事件に関わる様々な家族像によって覆い隠されて不明瞭になっていく。
そこのところに、私の「わけわからな感」が芽生えているのだ。
または、単に私の読書力が未熟なせいで、わけがわからなくなってしまうのか。
霧につつまれた暗い森の風景が目に見えるような描写。
古い家の暗い室内の臨場感。
得体のしれない登場人物の実在感。
あるいは生き生きとした得体のしれない登場人物たち。
それらの映像的な鮮明さが、悪夢的なストーリーをリアルに感じさせ、読む者を退屈させない。
私にとってそれが「奥の部屋/ロバート・エイクマン短篇集」の魅力である。
拍子抜けしながらも、「悪夢」の行く末が気になって仕方がない。
残像を引きずる。
余韻が続く。
「学友」はそんな物語である。
学生時代に仲の良かった二人の女の子が40歳を過ぎてから再会する。
学業において超優秀だったサリーと、ほぼほぼ優秀だったメル。
二人は近所同士だった。
メルが語り手となって物語が進んでいくので、この「悪夢」はメルが見ている「悪夢」である。
物語が進むにしたがって、サリーの変わり様や、サリーが暮らしている家の異様さが際立ってくる。
サリーの言動や家の奇怪さがどんどん進行するなかで、メルもそれに引きずられるように異様になっていく。
サリーの家に放火しようと考えたり、もみあってサリーの首を絞めたり。
奇怪な家の中を「探索」するという自身の行動の異様さに気がついていないのは、メルが語り手であるからか。
サリーの超異様と、メルのほぼほぼ異様。
年月を経ても、彼女らは異様さにおいて仲良しだった。
また、影のように登場しては消えていくテスラー博士(サリーの父)の存在も不気味と言えば不気味である。
そして結末は?
それは読んでのお楽しみ。
余談。
物語の流れは以下のようになっている。
「穏やか」→「やや奇怪」→「かなり奇怪」→「超奇怪」→「やや穏やか」→「?!の余韻が続く」
魅力的な女性であるクラリンダが、婚約者のダドリーの実家を訪問する。
その訪問でクラリンダは、ダドリーの家族や家族とつきあいのある村の住人たちを紹介される。
ダドリーの家族も村の人たちも、クラリンダの目には良さそうな人たちに映る。
そこへ、ちょっと異質な感じのパガーニ夫人が、招待もされていないのに遅れて登場。
その人とは、この短編小説では、大女優アラベラ・ロウクビー(ミス・ロウクビー)である。
「スタア来臨」にはいろいろな人物が登場する。
どの登場人物もどこか謎めいているのが、この小説の特徴であると私は感じている。
どこがどう謎めいているのか。
それは、この小説を読む者の好奇心しだいだろう。
物語の舞台は、かつて鉛や黒鉛の採掘が盛んだった「さびれた町」
今は石炭が町の主要産業となっている。
この町にある劇場(ヒッポドローム)の支配人が、往年の大女優であるアラベラ・ロウクビーを招いて、クリスマスに演劇を上演するという物語である。
物語にはいろいろなシーンが描かれている。
エマンシペーション・ホテルのバーや客室。
劇場(ヒッポドローム)の入口や舞台や客席。
鉛の採掘のための坑道のなか。
などなど。
これらもまた、微妙に謎めいていて、そのなかで微妙な異変が起こる。
微妙続きの思わせぶりな小説だが、いろいろな登場人物やいろいろなシーンのどこに興味を抱くかは読者しだい。
登場人物のイメージは鮮明に描かれ、物語の結末は「流動的」である。
読者の、これらの登場人物に対する思い入れで、物語の色合いが変わってくることだろう。
最初の男は、「ある人物」と知り合いになった「私」である。
次の語り手は、この「ある人物」に該当する「僕」。
「私」は「ある人物」とパーティーで知り合いになり、その夫婦から6回か7回ぐらい夕飯の招待を受ける。
そういうつきあいも次第に疎遠になり、ほとんど音信不通になったころ男(ある人物)が亡くなったという知らせを受ける。
法律事務所からのその手紙には、「私」が男の遺産相続人の一人に指定された旨のことが書かれていた。
「私」が相続のことで男の妻を訪ねた時、男が遺したスーツケースのなかに文書を見つける。
その文書には「ある人物」の奇妙な体験談が綴られていて、それを語るのが「ある人物」であるところの「僕」なのである。
「僕」が語り始めると、「私」の登場はぷっつりと無くなる。
奇妙な体験談は読んでのお楽しみだが、実は「僕」は「私」だったというありきたりなトリックは無い。
この小説には、いろいろな趣をもった物語が錯綜しているような印象を持った。
(1)主人公のレーネが、少女時代や中年女性になってから体験する不思議な家の悪夢の物語。
(2)レーネに裏切られたと思っている「人形の家」で暮らしている女性たちの童話。
(3)レーネが幼い頃に親から買ってもらい、その後手放すことになった玩具の「人形の家」。
その家が、中年女性となって外出中に、森の道に迷ったレーネの前に人間の住む家として現出する怪奇物語。
(4)幼い頃、玩具「人形の家」を粗末に扱ったことに対するレーネの自責が見せた幻想の物語。
などなど。
この物語にも、「スタア来臨」同様に多彩な人物が登場する。
レーネの父や母、弟のコンスタンティン、「人形の家」の住人であるエメラルドやその姉。
こういった人物が生き生きと描かれていて面白い。
「占有屋」という現実に即した題材で、現実的な脈絡で描かれた小説なのに、私には怪奇的な恐怖小説という印象が拭い得ない。
物語の軸になっていると思われる殺人事件のホラー性が、事件に関わる様々な家族像によって覆い隠されて不明瞭になっていく。
そこのところに、私の「わけわからな感」が芽生えているのだ。
または、単に私の読書力が未熟なせいで、わけがわからなくなってしまうのか。
短編集の魅力
それに比べるとロバート・エイクマンの「悪夢小説」は、あまりにも悪夢的なので、「わけわからな感」自体が脈絡なのではないかと感じてしまうのである。霧につつまれた暗い森の風景が目に見えるような描写。
古い家の暗い室内の臨場感。
得体のしれない登場人物の実在感。
あるいは生き生きとした得体のしれない登場人物たち。
それらの映像的な鮮明さが、悪夢的なストーリーをリアルに感じさせ、読む者を退屈させない。
私にとってそれが「奥の部屋/ロバート・エイクマン短篇集」の魅力である。
短篇集の収録作品
「学友」
最後に拍子抜けする。拍子抜けしながらも、「悪夢」の行く末が気になって仕方がない。
残像を引きずる。
余韻が続く。
「学友」はそんな物語である。
学生時代に仲の良かった二人の女の子が40歳を過ぎてから再会する。
学業において超優秀だったサリーと、ほぼほぼ優秀だったメル。
二人は近所同士だった。
メルが語り手となって物語が進んでいくので、この「悪夢」はメルが見ている「悪夢」である。
物語が進むにしたがって、サリーの変わり様や、サリーが暮らしている家の異様さが際立ってくる。
サリーの言動や家の奇怪さがどんどん進行するなかで、メルもそれに引きずられるように異様になっていく。
サリーの家に放火しようと考えたり、もみあってサリーの首を絞めたり。
奇怪な家の中を「探索」するという自身の行動の異様さに気がついていないのは、メルが語り手であるからか。
サリーの超異様と、メルのほぼほぼ異様。
年月を経ても、彼女らは異様さにおいて仲良しだった。
また、影のように登場しては消えていくテスラー博士(サリーの父)の存在も不気味と言えば不気味である。
そして結末は?
それは読んでのお楽しみ。
余談。
物語の流れは以下のようになっている。
「穏やか」→「やや奇怪」→「かなり奇怪」→「超奇怪」→「やや穏やか」→「?!の余韻が続く」
「髪を束ねて」
仕事ができてスタイルが良い。魅力的な女性であるクラリンダが、婚約者のダドリーの実家を訪問する。
その訪問でクラリンダは、ダドリーの家族や家族とつきあいのある村の住人たちを紹介される。
ダドリーの家族も村の人たちも、クラリンダの目には良さそうな人たちに映る。
そこへ、ちょっと異質な感じのパガーニ夫人が、招待もされていないのに遅れて登場。
クラリンダは、村人とは雰囲気の違うパガーニ夫人に興味を覚える。
ダドリーの家族に退屈な思いを抱いたクラリンダが、夕暮と深夜の2回、独りで村のなかを散歩(探索)したり、散歩(探索)のついでにパガーニ夫人の住む教会に近づこうとしたりする。
その散歩(探索)中にクラリンダは、実に様々な出来事、怪奇な出来事に襲われる。
奇怪な光景を垣間見る。
悪夢のような、怖い童話の世界のような・・・
翌朝、クラリンダとダドリーは、何事もなかったようにロンドンへ帰る。
実際、ダドリーや彼の家族や村人たちには何事もなかったのだ。
不愛想な駅員に案内された待合室には、真冬なのに暖房がなかった。
薄気味の悪い待合室で、独り一夜を明かすペンドルベリは、夢うつつの状態で、ここにいるはずのない様々な人々の集団に囲まれる。
男の名前はエドマンド。
エドマンドにとって見知らぬ人物である謎の女性の名は、ネーラ。
ネーラもまた、電話という機械に魂と肉体を奪われてしまっていた。
エドマンドの婚約者であり、ネーラの知人であるテディが、腐敗したネーラの死骸を発見するのだが・・・・
読者がエドマンドやネーラやテディに興味を抱けば抱くほど、この奇妙な物語が面白くなるような気がする。
ダドリーの家族に退屈な思いを抱いたクラリンダが、夕暮と深夜の2回、独りで村のなかを散歩(探索)したり、散歩(探索)のついでにパガーニ夫人の住む教会に近づこうとしたりする。
その散歩(探索)中にクラリンダは、実に様々な出来事、怪奇な出来事に襲われる。
奇怪な光景を垣間見る。
悪夢のような、怖い童話の世界のような・・・
翌朝、クラリンダとダドリーは、何事もなかったようにロンドンへ帰る。
実際、ダドリーや彼の家族や村人たちには何事もなかったのだ。
「待合室」
居眠りして列車の乗継駅を通り越してしまったペンドルベリは終点の駅で一夜を過ごすことになる。不愛想な駅員に案内された待合室には、真冬なのに暖房がなかった。
薄気味の悪い待合室で、独り一夜を明かすペンドルベリは、夢うつつの状態で、ここにいるはずのない様々な人々の集団に囲まれる。
「何と冷たい小さな君の手よ」
見知らぬ女性からの電話の虜になってしまった男の話。男の名前はエドマンド。
エドマンドにとって見知らぬ人物である謎の女性の名は、ネーラ。
ネーラもまた、電話という機械に魂と肉体を奪われてしまっていた。
エドマンドの婚約者であり、ネーラの知人であるテディが、腐敗したネーラの死骸を発見するのだが・・・・
読者がエドマンドやネーラやテディに興味を抱けば抱くほど、この奇妙な物語が面白くなるような気がする。
「スタア来臨」
「来臨」とは、その人がある場所へ来てくれることを敬っていう言葉である。その人とは、この短編小説では、大女優アラベラ・ロウクビー(ミス・ロウクビー)である。
「スタア来臨」にはいろいろな人物が登場する。
どの登場人物もどこか謎めいているのが、この小説の特徴であると私は感じている。
どこがどう謎めいているのか。
それは、この小説を読む者の好奇心しだいだろう。
物語の舞台は、かつて鉛や黒鉛の採掘が盛んだった「さびれた町」
今は石炭が町の主要産業となっている。
この町にある劇場(ヒッポドローム)の支配人が、往年の大女優であるアラベラ・ロウクビーを招いて、クリスマスに演劇を上演するという物語である。
物語にはいろいろなシーンが描かれている。
エマンシペーション・ホテルのバーや客室。
劇場(ヒッポドローム)の入口や舞台や客席。
鉛の採掘のための坑道のなか。
などなど。
これらもまた、微妙に謎めいていて、そのなかで微妙な異変が起こる。
微妙続きの思わせぶりな小説だが、いろいろな登場人物やいろいろなシーンのどこに興味を抱くかは読者しだい。
登場人物のイメージは鮮明に描かれ、物語の結末は「流動的」である。
読者の、これらの登場人物に対する思い入れで、物語の色合いが変わってくることだろう。
「恍惚」
この小説は、二人の男が物語を語り継ぐという構成になっている。最初の男は、「ある人物」と知り合いになった「私」である。
次の語り手は、この「ある人物」に該当する「僕」。
「私」は「ある人物」とパーティーで知り合いになり、その夫婦から6回か7回ぐらい夕飯の招待を受ける。
そういうつきあいも次第に疎遠になり、ほとんど音信不通になったころ男(ある人物)が亡くなったという知らせを受ける。
法律事務所からのその手紙には、「私」が男の遺産相続人の一人に指定された旨のことが書かれていた。
「私」が相続のことで男の妻を訪ねた時、男が遺したスーツケースのなかに文書を見つける。
その文書には「ある人物」の奇妙な体験談が綴られていて、それを語るのが「ある人物」であるところの「僕」なのである。
「僕」が語り始めると、「私」の登場はぷっつりと無くなる。
奇妙な体験談は読んでのお楽しみだが、実は「僕」は「私」だったというありきたりなトリックは無い。
「奥の部屋」
この短編集の表題となっている小説である。この小説には、いろいろな趣をもった物語が錯綜しているような印象を持った。
(1)主人公のレーネが、少女時代や中年女性になってから体験する不思議な家の悪夢の物語。
(2)レーネに裏切られたと思っている「人形の家」で暮らしている女性たちの童話。
(3)レーネが幼い頃に親から買ってもらい、その後手放すことになった玩具の「人形の家」。
その家が、中年女性となって外出中に、森の道に迷ったレーネの前に人間の住む家として現出する怪奇物語。
(4)幼い頃、玩具「人形の家」を粗末に扱ったことに対するレーネの自責が見せた幻想の物語。
などなど。
この物語にも、「スタア来臨」同様に多彩な人物が登場する。
レーネの父や母、弟のコンスタンティン、「人形の家」の住人であるエメラルドやその姉。
こういった人物が生き生きと描かれていて面白い。