2021/05/29

低山の森のなかで、チゴユリの小さな白い花が咲いていた

チゴユリの長楕円形の葉。単葉で、互生している。葉柄は無く、葉の付け根(葉腋)が茎にくっついている。


森の草やぶのなかで、チゴユリの白い花が咲いていた。
草丈は、20~30センチ。
花の直径は1センチ前後だった。

落葉樹林帯ではよく見かける花と言われているが、私はあまりお目にかかったことがない。
なので、この花の名前が、なかなか思い出せなかった。
インターネットで調べたら、懐かしい名前が記憶に甦った。
チゴユリ。
どこかで出会っていたなあ。

清浄な雰囲気を持っている花である。
花言葉は、「恥ずかしがりや」とか「純潔」とか。
年齢がかさむにしたがって、「恥ずかしがりや」とか「純潔」からは遠ざかっていくような気がする。
あくまでも、気がするなのだが。
遠ざかっていく過程で、いつのまにか清浄な雰囲気の花の名を忘れてしまっている。
なんてこともあるだろうさ。

チゴユリは下向きに咲くのが多いとされているが、ここでは元気に上向きに咲いている。
花柄を弓なりに曲げて下向きに咲いていれば、大きな葉の影になって見つけにくいことだろう。
ここのチゴユリは、白い花が上向きに咲いているので、すぐ目についた。

チゴユリは漢字では「稚児百合」と書く。
百合の稚児のような印象なので「稚児百合」と命名されたとのこと。
花の形が、ちょっとユリに似ているが、ユリ科の植物ではないようだ。
イヌサフラン科に分類されているという。

上向きに咲くチゴユリを眺めていたら、なぜかハスの花を連想してしまった。
雰囲気がちょっと似ているのだ。
風に揺れている草やぶを、波がたっている池にたとえれば、そこから顔を出している花弁の様子がなんとなくハスに似ている。

あまり人の訪れることのない森の中で、清浄とされているものを思い浮かべる。
あまり清浄でない爺(わたしのこと)が、清浄なもので身を包まれているような気になる。
森という生物の世界が、そういう人間の観念の世界に置き換えられるときがある。

森の散歩者は、いつのまにか観念の世界の散歩者になる。
だがヤブ漕ぎ登山者に、そんな余裕はない。
行く手を阻むネマガリダケや灌木や蔓性植物をかき分けるという物理的な作業をこなさなければ前には進めない。

その行程の途中で、可憐な山野草に出会う。
観念の世界が、じわじわと肉体を潤す瞬間である。

人はいろいろなものに触れながら、山を歩くのだなあ。
山を歩ける体力を持っている幸福。
その山でチゴユリに出会える幸福。

ああ、やっぱり。
ヤブ漕ぎ山歩きでも、山歩きは観念優先なのだね。


よく見るとユリの花に似ている。

チゴユリは、下向きに咲く花が多いのだが、ここは上向きに咲いている花が多い。

観念のチゴユリ。