津軽半島今別町砂ケ森地区の「赤根沢の赤岩」
自動車道(国道280号線)の脇に置かれた赤岩の看板岩。 |
国道280号線(松前街道)を、平舘(外ヶ浜町)から今別方面へ向かって走る。
今別町に入ってすぐの「鬼泊トンネル」を抜けて1.3kmぐらいのところに一本木漁港が見える。
漁港を過ぎて1.2kmぐらい走ると、右手に見えていた海が姿を消す。
弁天崎の峠を越えると砂ケ森地区に入る。
また海が右手に見えだすあたり、山側の芝生に大石が置かれているのが目に入る。
赤色なのでよく目立つ。
「赤根沢の赤岩」と記された看板が大石の脇に立っている。
看板の色も赤っぽい。
「赤根沢の赤岩」は青森県の天然記念物に指定されている。
赤い岩には、ベンガラの主成分である酸化第二鉄が含まれているとのこと。
ベンガラ(弁柄・紅殻)とは、赤色の天然顔料のことである。
ベンガラは、古くから神社仏閣の赤い塗料として利用されてきたという。
日光東照宮の赤塗りの原料は、ここ赤根沢産のものだとされている。
インターネットにアップされている論文「初期の日光社寺建造物に使用された 赤色塗装材料に関する調査(北野信彦・本多貴之・佐藤則武)」に以下の記載があった。
この他にも貞享3年(1684)の『工藤家記』には 「赤丹 沢赤土公議へ献上」,享保12年(1727)の『津軽一統志』には 「赤土を紅葉山・日光山に献上」 などの記述もあり,津軽藩は領内の 「赤土山」 で産出する「赤土」を,江戸城内の秋葉山御宮 や厳有院御霊屋,日光の将軍家御霊廟など,徳川将軍家縁の主要な霊廟建造物の外観塗装材料 として幕府に献上していたことがわかる。この津軽藩が管理していた「赤土山」とは,昭和30 年(1955)に青森県天然記念物に指定された青森県津軽郡今別町砂ヶ森字赤根沢に所在する 「赤根沢の赤岩」周辺約30アールほどの天然赤鉄鉱の採掘坑跡である。当時の状況について, 貞享3年(1684)の『外ヶ浜上磯代官所畑屋敷其外諸品書上帳』は,「赤土御役所四間五間 蔵は三間四間 千野太夫抱」 と記し,赤土山には赤根沢の小川を両方に挟んだ海岸に面する松前街道沿いに御番所と赤土倉があり,赤土の採掘と管理・搬出を行なっていたことを伝える。
しかし,その後約一世紀を経た天明5年(1785)橋南鶏氏の『東遊記』は,「僅かに三年の後 なりしが,柵も破れて守る人なく,通路自由なり」 と懐古するように,18世紀末頃には「赤土」 の生産自体は衰退したようである。 (「初期の日光社寺建造物に使用された 赤色塗装材料に関する調査」より抜粋)
また、津軽地方の岩木山神社の塗料にも、赤根沢産のベンガラが利用されていたらしい。
過去において赤根沢は、良質のベンガラの原料を採掘できる産地として全国的に有名な場所だったようである。
日本古来の伝統色に茜色があるが、赤根沢も昔は茜色の材料がとれる茜沢だったのではあるまいか。
と、トーシロは推測している。
青森市民図書館歴史資料室で発行している “メールマガジン「あおもり歴史トリビア」” に以下の記載があった。
かつて縄文時代には、土器などの彩色に用いられたり、お墓に粉末が散布されたりするなど、 信仰上のシンボルとしても使用されています。特に、縄文時代晩期、本州東北部から北海道南西部を中心に形成される亀ヶ岡文化では、赤色に執着する志向が大きく、墓や土器のほかに、木器、 飾り弓、籃胎漆器などの漆塗り製品や、土偶、仮面、土版などの祭祀関連遺物、耳飾やヒスイの 玉の緒などの装身具にも盛んにベンガラが用いられてきました(担当:児玉氏)。
縄文ベンガラ空想
きっと津軽半島の縄文人は、赤根沢の赤岩を砕いてベンガラを作っていたに違いない。そして、赤根沢で製造したベンガラを全国に流通させていた。
縄文人の時間の感覚は、現代とは違っていたはずである。
赤根沢のベンガラを流通させるために、生涯をかけて全国行脚した縄文人がいたかもしれない。
だとすれば、赤根沢には縄文人のベンガラ製造工場があったのではあるまいか。
山から採集した漆液(うるしえき)とベンガラを練り合わせて、ベンガラ漆を作る。
赤根沢の縄文人は、そのベンガラ漆で土偶や土器を彩色する仕事もしていた。
縄文人は産業してた!
さらにベンガラ製造を担う職人たちの集落が、赤根沢一帯にあったかもしれない。
縄文時代において、すでにここに一大産業都市が存在したのでは!
などと、楽しい空想に耽っている。
ちょっと奥にある採掘跡。洞穴は坑道か? |
赤い岩肌。 |
ベンガラの原料。 |
酸化第二鉄の赤。 |