芭蕉の自負と気負い「蚤虱馬の尿する枕もと」
尿前(しとまえ)の関。T・N氏写真提供。 |
出羽を目指す
元禄2年5月15日。「おくのほそ道」の旅の途上、芭蕉は岩手山【現大崎市岩出山(いわでやま)】を発って出羽を目指す。
歌枕の地である「小黒崎(おぐろさき)」や「美豆(みづ)の小島」を見物。
鳴子温泉から「尿前の関」を通って出羽新庄領に入り、堺田(さかいだ)に到着している。
国土地理院の地形図で、地名を追いながら芭蕉の足跡を辿る。
すると芭蕉は、現在の国道47号線と並行して進んでいることがわかった。
国道47号線は、尿前の関までは江合川(えあいがわ)沿いを通る。
尿前の関からは、鳴子峡などが含まれる大谷川沿いを通って堺田に至っている。
出羽仙台街道
芭蕉が通ったとされる出羽仙台街道は、ほぼ国道47号線と並行しているようである。地形図で堺田付近の川の流れを見ると、堺田付近が出羽仙台街道の分水嶺になっている。
堺田は、仙台方面から来れば、山道を抜けたところにある峠の小さな村里である。
四方を山に囲まれていて、のどかな感じの山里。
そんな様子が、地形図から想像された。
中山越
地形図には「出羽仙台街道中山越」が点線で残っている。この街道の最高地点は、堺田の集落。
集落の標高は、355mぐらいである。
堺田(中山峠)の東方向にある「尿前の関」は標高170mぐらい。
標高差約190mの峠越えである。
奥羽山脈を越えると言っても、出羽仙台街道は奥羽山脈を横断している谷あいの道であるから、この程度の標高差で済んでいる。
中山越えが出羽仙台街道の最大の難所であると当時は言われていたようだか、健脚の芭蕉にとっては標高差190mの峠越えは、どうだったのだろう。
この時期は梅雨時だったので、山道は悪路状態になっていたと思われる。
それに、山歩きをしていればわかることだが、地形図の等高線と標高差では計れない難所も実際にはある。
中山峠越えは、健脚の芭蕉にとっても困難な山行だったのかもしれない。
「おくのほそ道」の中山越えの描写は、「大山を登って日すでに暮れければ」とあるだけなのだが。
堺田到着
地形図で計測すると、岩手山から堺田までは約32キロメートルの道のり。出羽仙台街道は山道であるからアップダウンがかなりあるはず。
特に尿前から小深沢や大深沢を越えるあたりは、急坂のアップダウンとなっている。
その高低差を足すと、実際に進んだ距離はもっと長くなる。
芭蕉は、峠である堺田の里に着いて、ほっと安堵したに違いない。
出羽仙台街道の地形図
下の地形図は国土地理院の「電子国土Web」のサイトからダウンロードして、私が加工したもの。芭蕉が通ったと思われる「出羽仙台街道中山越」の遺存している部分が、「国指定史跡」となって整備されているという。
そのルート(点線表示部分)を緑ベタで囲み、地形図の下にルートの断面図を添えた。
断面図を見ると、標高差が190mなので、ゆるやかそうであるのだが。
鳴子温泉付近では「小深沢・大深沢」越えが大変そうなのがよくわかる。
中山平から堺田までは、芭蕉が言う「大山を登って」のような箇所は、断面図からは見当たらない。
尿前から鳴子温泉までの「出羽仙台街道中山越」のルート。出典:国土地理院ホームページ。 |
尿前から鳴子温泉までの「出羽仙台街道中山越」の高低差グラフ(ルート断面図)。出典:国土地理院ホームページ。 |
中山平から堺田までの「出羽仙台街道中山越」のルート。出典:国土地理院ホームページ。 |
中山平から堺田までの「出羽仙台街道中山越」の高低差グラフ(ルート断面図)。出典:国土地理院ホームページ。 |
芭蕉の創作
「この道旅人まれなる所なれば、関守に怪しめられて、やうやうとして関を越す。」と「おくのほそ道」にある。
「尿前の関」の「関守」が、人々があまり行きたがらない中山越えを、なぜあなたは行くのかと、芭蕉を問い詰めたということなのだろう。
芭蕉はこの文章で、「関守に怪しめられ」るほど中山越えは困難な旅路なのだと、「おくのほそ道」の読者に語っているのである。
芭蕉にとって、中山越えよりも「尿前の関」を越える方が難儀だったように見せかけながら。
私が知る限りの多くの芭蕉研究者が、「おくのほそ道」は旅行中の実際の出来事を記した紀行文ではなく芭蕉の文学的な創作物であると述べている。
その根拠は、「曾良随行日記」の存在である。
「おくのほそ道」の内容と「曾良随行日記」の実録的な内容を比べると、多くの違いがあることが明らかになっているとのこと。
創作物なら、作者(芭蕉)が意図的に読者を作者の「思惑」に誘導することは、おおいにあり得ること。
「尿前の関」の「関守」が、人々があまり行きたがらない中山越えを、なぜあなたは行くのかと、芭蕉を問い詰めたということなのだろう。
芭蕉はこの文章で、「関守に怪しめられ」るほど中山越えは困難な旅路なのだと、「おくのほそ道」の読者に語っているのである。
芭蕉にとって、中山越えよりも「尿前の関」を越える方が難儀だったように見せかけながら。
私が知る限りの多くの芭蕉研究者が、「おくのほそ道」は旅行中の実際の出来事を記した紀行文ではなく芭蕉の文学的な創作物であると述べている。
その根拠は、「曾良随行日記」の存在である。
「おくのほそ道」の内容と「曾良随行日記」の実録的な内容を比べると、多くの違いがあることが明らかになっているとのこと。
創作物なら、作者(芭蕉)が意図的に読者を作者の「思惑」に誘導することは、おおいにあり得ること。
人馬同居
さて、旅を続けている主人公(芭蕉)は、関所を越えるのに時間を費やしてしまい、日が暮れた山道を歩かなければならなかった。やっとたどりついた堺田の集落で、村長(むらおさ)の家を見つけて宿泊をお願いし、泊めてもらえることになった。
堺田では、人馬同居の宿となった。
堺田では、人馬同居の宿となった。
「芭蕉年譜大成」によれば、芭蕉は大雨のため、堺田に二泊している。
「おくのほそ道」にも「三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。」とある。
下記は、そのとき詠んだ句とされている。
蚤虱馬の尿する枕もと
(のみしらみ うまのばりする まくらもと)
(のみしらみ うまのばりする まくらもと)
ハードボイルドタッチ
掲出句は、「物」や「事」だけが登場する簡潔な描写で、作者の思いを表現した語は省かれている。いわば叙述のみで、風雅な抒情の言葉は無い。
詠嘆も無い。
まるでハードボイルド小説の手法のようである。
句のタッチがハードボイルド的。
この句の奥には、悪路の中山峠を越えてきた芭蕉の安堵感と達成感があるように感じられる。
宿に着いても、まだ興奮冷めやらぬ状態だったのか。
なのでハードボイルドタッチ。
その興奮を軽快なリズムに変えている。
「のみしらみ」の「み」の脚韻がリズミカルである。
日の暮れた山道を歩き、やっと宿にたどり着いた芭蕉は、その宿に棲んでいる蚤や虱に親近感を覚えたようなイメージもないではない。
視線の奥
視点の移動も面白い。蚤は、ピョンピョンと飛び跳ねる。
虱は、チョロチョロと歩き回る。
そんな1ミリにも満たない蚤や虱から、大型動物である馬に読者の視線が動く。
動き回る微小な生物と、じっと立っている大型動物との対比。
馬の放尿が落下する先に、読者の視線も落下する。
そこに、眠っている芭蕉の頭があるという図柄。
この句は、無数の蚤や虱が動き回る中、枕もとで放尿する野放図な馬を詠ったものではない。
読者の視線を奥へ奥へと誘導し、そこにいる芭蕉自身を描いたものと私は感じている。
芭蕉の自負と気負い
その奥には、「おくのほそ道」の旅の、ひとつの峠を越えた芭蕉がいる。達成感とともに、この旅で創作上の何かを得たと感じ入っている芭蕉。
その愉快さを軽快さに変えて、戯れたのである。
掲出句から、蚤や虱や馬の放尿に対する芭蕉の不快な気分が感じられないのはそのせいなのだろう。
やはり、「興奮冷めやらぬ」だったのかもしれない。
「三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。」とあるのは、早く次を目指したいという主人公(芭蕉)の気負いを読者に伝えたかったのではあるまいか。
この後芭蕉は、「山刀伐峠(なたぎりとうげ)」を越えて出羽の国や越後の国を旅し、のちの世に名句と称賛される句を次々と生み出している。
余談になるが、人馬同居の家に好奇心を持った芭蕉は、この句で東北地方の農家の民俗を描いたことにもなった。
と、トーシロな私は空想している。
芭蕉像と石碑。T・N氏写真提供 |
「元禄の芭蕉おきなもここ越えて旅のおもひをとことはにせり」と刻まれた斎藤茂吉の歌碑。T・N氏写真提供 |
■参考文献
芭蕉年譜大成:今榮藏著・角川書店
おくのほそ道(全):武田友宏 ・角川ソフィア文庫
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