雑談散歩

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「涼し」も「早し」も芭蕉の最上川体感「さみだれをあつめて」

10月27日の大石田付近の最上川。大石田付近は平野部なので、最上川はゆったりと流れている。T・N氏撮影。

芭蕉のUターン

「芭蕉年譜大成(今榮藏著・角川書店)」によれば、松尾芭蕉は「おくのほそ道」の途上で山形領尾花沢に立ち寄り、尾花沢から南下して山寺(立石寺)を訪ね、山寺から北上(Uターン)して大石田に到着している。
大石田は尾花沢のすぐそば。
芭蕉は、旅の予定になかった山寺に寄り道して、また尾花沢近くまでもどってきたのである。

この芭蕉の行動は、地元(尾花沢)の人の勧めによるものである。
「おくのほそ道」に以下のようにある。
山形領に立石寺という山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとって返し、
「清風、楯岡(現村山市)まで馬を出す」と「芭蕉年譜大成」にあるので、鈴木清風が勧めたのかもしれない。
山寺で芭蕉は、名句とされている「閑かさや岩にしみ入る蝉の声」を作っている。

芭蕉の体力

元禄2年5月27日の朝に尾花沢を発って、この日の「未ノ下刻」に山寺に着いている。
「その間七里ばかりなり」と芭蕉は述べているが、九里近くあったのではないだろうか。
国土地理院の地形図で計測したら、尾花沢から立石寺まで約36キロ(私の計測が正しければ)あった。
芭蕉はその道のりを進んで、午後三時に山寺に到着したことになる。

到着したその脚で、芭蕉は「山上・山下を遥拝」している。
日いまだ暮れず、麓の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、
馬に乗ったり籠に乗ったりしたとは言え、46歳の初老の人にしてはかなりの体力である。
36キロの旅のあと、岩山によじ登ったりしたのだ。
好奇心も冒険心も旺盛だったのだろう。
それらは、芭蕉の強靭な体力に支えられていたのだろう。

涼し最上川

山寺に一泊して、5月28日には大石田に到着している。
最上川乗らんと、大石田といふ所に日和を待つ。
翌日の5月29日に、宿泊先の高野一栄宅で「四吟歌仙興行」。
その歌仙での芭蕉の発句が以下の句である。

さみだれをあつめて涼し最上川

尾花沢・大石田と天童の往復は羽州街道を通ったに違いない。
地形図で見ると羽州街道の、天童から大石田の近くまでは最上川沿いではあるが、川からはちょっと離れている。

私の想像では、芭蕉は往路の尾花沢から山寺までの行程では最上川を見ていない。
復路の終点である大石田で、やっと最上川を見ることができたのだろう。

梅雨の合間の蒸し暑いなかを、山寺への往復旅を敢行。
やっとの思いでたどり着いた大石田で、みちのくの大河である最上川を間近に見た。
そのときの芭蕉の実感を表現したのが掲出句であると私は感じている。

「さみだれ」は雨季の困難な旅を象徴しているように思える。
旅の労苦をのみ込んで、押し流してくれている最上川から、なんと心地よい涼風が吹いていることか。
芭蕉の体感であり、亭主である高野一栄に対する「土地誉め」の挨拶句でもあったのだろう。
「涼し」の句での「さみだれ」は、旅の労苦をイメージしている。
私は、そう感じた。

最上川川下り

大石田に四泊して6月1日に出立。
舟形までは馬に乗って、芭蕉と曾良はその日のうちに新庄に着いた。
新庄に二泊し、6月3日に本合海の二郎兵衛という人が船を工面したので、その船に乗って芭蕉と曾良は最上川を下ったという。
下流の清川で船から下りた。

国土地理院の地形図で見ると新庄の近くの本合海から清川までは22.5kmの船旅。
この区間は山間部で、大小様々な支流が最上川に流れ込んでいる。

当時は雨季で、水量は豊富。
まさに「さみだれ」をあつめていたのである。
最上川はかなりの急流になっていたことだろう。
最上川は陸奥より出でて、山形を水上とす。碁点・隼などといふ恐ろしき難所あり。板敷山の北を流れて、果ては酒田の海に入る。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。これに稲積みたるをや、稲船といふならし。白糸の滝は青葉の隙々に落ちて、仙人堂、岸に臨みて立つ。水みなぎって舟危うし。
夏の時期であるから「稲船」に稲を積んではいない。
芭蕉は、川下りのために特別に「稲船」を工面してもらったのだろう。

早し最上川

空の「稲船」で、あまりよく知らない船頭を頼りに急流を下る。
これは「涼し」どころではない。
「水みなぎって舟危うし」
「涼し」を通り越して、芭蕉は恐怖に打ち震えていたかもしれない。
芭蕉の心臓が、早鐘のように打ち始める。

川の流れの速さが、心拍の速さと重なったとき、芭蕉は「さみだれをあつめて」早い最上川を実感したのではあるまいか。
山間部を流れる最上川を、地形的に実感したのである。
「涼し」よりも「早し」の方が、方々の支流から「さみだれ」をあつめた「最上川」の臨場感をよく表している。
恐怖のうちにそう実感した芭蕉は、掲出句を以下のように改作した。

五月雨をあつめて早し最上川

案外芭蕉は、急流を下る舟のスピード感を喜んで、船縁を叩いて「愉快、愉快」と叫んでいたかもしれない。
そう空想すると、この句は楽しい。

独立した「姉妹句」

なお一般的な見解は、「早し」の改作句があるものの、「涼し」の初句は歌仙の発句として確立しているとのことである。

私は「涼し」と「早し」は、おのおの独立した「姉妹句」であると感じている。
「涼し」は、旅の労苦を詠んだセンチメンタルな芭蕉の句。
「早し」は、最上川の一部を地形的に理解したアウトドアマンとしての芭蕉の句。

川下りとハイキング

「おくのほそ道」に「六月三日、羽黒山に登る」とある。
6月3日に最上川を船下りして清川で下船した芭蕉は、その脚で羽黒手向(とうげ)村に着いている。
羽黒山は丘陵地で、そのなかに手向村がある。
清川から手向村まで、最上川支流である立谷沢に沿った道を進んだとすれば、その行程は約17キロメートル。

22.5キロメートルの急流川下りをした後、山道を含んだ17キロメートルの道を進んでいる。
ここでも、芭蕉の体力には驚かされる。
芭蕉よりも五歳若いが、河合曾良の体力もすごい。
芭蕉は、自分と同等の体力の持主を旅の同行者として選んだのだろう。

「芭蕉年譜大成」には「6月6日、月山登山」とあるが、「おくのほそ道(角川ソフィア文庫)」には「八日、月山に登る」とある。
いずれにしても、歩みを止めない芭蕉の好奇心は抜群であるという証に違いはない。

<芭蕉の「月山登山」については、過去記事をご参照ください>

大石田町にある石碑


大石田の高野一栄宅での「四吟歌仙興行」の石碑。芭蕉自筆の歌仙を写して刻んだもの。T・N氏撮影。

石碑の説明看板。T・N氏撮影。

以下は、上の看板から石碑の説明部分を引用したもの。

芭蕉翁真蹟歌仙“さみだれを”の碑

芭蕉翁は、元禄二年に大石田を訪れ、新古ふた道に踏み迷いさぐり足している、一栄と川水に俳諧の指導をしました。そして出来ましたのが歌仙“さみだれを”といわれる一巻です。芭蕉翁は、自ら筆を執ってこの歌仙を書きました。 
 平成元年は、芭蕉翁が「おくのほそ道」を旅してから三百年にあたりますので、記念として、その歌仙の初折の表六句と名残の裏六句並びに奥書を二倍に拡大して刻んだ碑を、歌仙が巻かれた由緒の地に建立いたしました。(原文ママ)


■参考文献
芭蕉年譜大成:今榮藏著・角川書店
おくのほそ道(全):武田友宏 ・角川ソフィア文庫

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