津軽半島の知る人ぞ知る名所?「松陰くぐり」を抜けて三厩洞門群へ思いを馳せた
「松陰くぐり」を北側から南側へ抜けた(黄色い矢印線)。右側住宅の敷地(私有地)を通らせてもらって公道に出た。 |
今別町発行の「今別町観光ガイド」のパンフレットには、「おすすめスポット」として「松陰くぐり」の案内記事がある。
それによると、「松陰くぐり」とは「かつて松前街道の難所で、嘉永5年(1852)に吉田松陰が通ったことから、この名前で呼ばれたそうです。(原文ママ)」とのこと。
ロシア船に対する防備を確かめるために、嘉永4年に宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)とともに吉田松陰は「東北遊学の旅」に出たと言われている。
吉田松陰がその旅で得た見聞を記した記録が「東北遊日記」である。
「東北遊日記」には、津軽半島(三厩、今別、平舘、青森)を歩いたことも記されてある。
国立国会図書館デジタルコレクション「東北遊日記 2巻」より。 |
上の画像は、「東北遊日記」の今別町近辺の記事。
漢文調なので、私にはよくわからない。
「竜飛崎之近地有五村。曰上宇鉄。本宇鉄。釜沢。六十間。筆島・・・・・・・」という文字が見える。
また「其人物旧係蝦夷人種。」という文字が見える。
当時、龍飛崎付近の五つの村で暮らしていたアイヌ民族について書かれているらしい。
この後は、平舘の「砲門」の記事。
おそらく平舘の台場を見物したのだろう。
今別から平舘に向かう際に、波打ち際の険しい道を通ったという文字は見当たらない。
当時の松前街道に、この洞門をくぐる道しかなかったのであれば、吉田松陰はこの洞門をくぐったのだろう。
そんな「松陰くぐり」なのだが、この名所である洞門へ誘導する看板はどこにも無い。
「今別町観光ガイド」にも載っている観光スポットなのに。
その訳は、この洞門を間近に見物するためには、個人宅の敷地内を通らなければならないからである。
自宅の敷地を観光客が無遠慮に通ったのでは、住民にとっては大迷惑。
私が足を踏み入れたときは留守だったようなので、無断で私有地のなかを通ってしまった。
「松陰くぐり」の北側の漁船置き場の近くにクルマを停めた。
そこは私有地らしかったので、その場所にいた老年のご夫婦に、短時間駐車の許可を得た。
浜へ降りる際は、そのご夫婦が所有している作業小屋の中を通らせてもらった。
優しい笑顔の親切な人たちだった。
石ゴロゴロの歩きにくい浜を15分ぐらい歩いて、「松陰くぐり」を目の当たりに見た。
折しも、干潮だったので、この洞門をくぐることができた。
このぐらいの干潮なら、海側の柱のような岩を巻いても通れそうだった。
洞門内の柱岩の壁が、不自然すぎるぐらい平坦で垂直になっている。
果たしてこの洞門は、人の手によるものなのか、自然の産物(海蝕洞)なのか。
「松陰くぐり」を抜けたら、前方に歩きやすそうな浜が広がっていたので、そのまま進んで、前述の私有地を通ったのだった。
距離的にも、南側のアプローチの方がかなり近い。
だがお邪魔するときは、個人宅なので許可が必要だ。
「松陰くぐり」は奇岩としても面白い形をしている。
海側の柱岩は塔のようにも見える。
そういえば三厩(みんまや)の義経寺の前にある厩石(まやいし)にも海蝕洞が三つある。
宇鉄付近の道路下にも海蝕洞がある。
今別町から三厩地域にかけて、一帯は海蝕洞の宝庫であるかもしれない。
しかも三厩地域には、岩を削って通行可能にした洞門(隧道)が、過去には十三カ所もあったという。
これらの洞門群は昭和4年に全線開通。
すべて地元民の費用でなされた工事であるとのこと。
十三カ所のうち、国道339号線で現在でも隧道(トンネル)として使われているものがいくつかある。
旧道上では、使われなくなった隧道が、ひっそりと地域を見守っている。
遠い昔の、地域住民の労苦の結晶が観光客に注目されることもなく佇んでいる。
今別町の「松陰くぐり」を見物し、奇岩が並ぶ海岸線の海蝕洞について思いを巡らし、三厩地区の洞門群に思いを馳せた。
津軽半島には、隠れた名所が多い。
それらは昔の地元民の労苦を物語っている。
アイヌ民族の労苦。
辺境に暮らしていた漁民の労苦。
それらを物語っているように思える。